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邪馬台国三山と大和三山

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○霧島山の大幡山へミヤマキリシマ見物に出かけて、ブログ『大幡山のミヤマキリシマ』から『霧島山の映山紅』まで、長々と続けて来た。それで、肝付町の三岳参りの話が中断したままとなっている。最後に、『邪馬台国三山』の話を書いているので、続けて『邪馬台国三山と大和三山』の話をしたい。

○ここのところの話は、「肝付町の三岳参り」が本来、どういうものであったかの話である。それにはまず、肝付町の三岳がどういうものであるかをしっかり認識することである。その際、最も参考となるのは、江戸時代に架かれた「麑藩名勝考」ではないか。書いたのは白尾國柱と言う国学者である。

○ただ、白尾國柱の「麑藩名勝考」を読んで、それで終わりと言うわけではない。江戸時代では白尾國柱の「麑藩名勝考」が至高の叡智だったかも知れないが、白尾國柱にも時代の制約と言うものがある。それが真実の神代三山陵発見を妨げているとするしかない。二十一世紀の現代であれば、もっと進歩した神代三山陵の比定地が案内できるのではないか。

○そういう神代三山陵の研究が以下のブログである。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1

○結果、真実の神代三山陵は次のように案内される。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○これだけでも、相当大きな問題である。誰もこういう研究をしていない。では、白尾國柱は何のために神代三山陵の研究に勤しんだかと言うことである。国学者である彼にとって、神代三山陵は避けて通れない、一種の命題だったと言えよう。誰もそういうことに気付かない。

○どういうことかと言うと、神代三山陵の存在するところが天皇家の故郷であると言うことである。そのために白尾國柱は神代三山陵を懸命に探索した。幸い、彼は薩摩藩の藩士であった。神代三山陵は彼の藩内に存在すると思われた。その研究成果が白尾國柱の「麑藩名勝考」である。白尾國柱は「麑藩名勝考」の緒言でそのことを明らかにしている。

○白尾國柱の「麑藩名勝考」を読むと言うことは、そういうことである。それを近代科学と言う色眼鏡を使ってみてはならない。そんな読み方で白尾國柱の「麑藩名勝考」は読めない。白尾國柱の「麑藩名勝考」を読もうと思うなら、薩南学派に従った読み方をしない限り、読むことは難しい。今どき、そういうふうに書物を読むことは至難の業と言うしかない。

○現代の私たちが白尾國柱の「麑藩名勝考」を読もうとすれば、鹿児島県史料「麑藩名勝考」を読むしかない。しかし、その冒頭を飾る『白尾国柱略伝』が残念なものとなっているのが何とも腹立たしい。後世のつまらない学者先生が知ったかぶりをして、白尾國柱の「麑藩名勝考」を評価している。しかし、その学者先生にはまるで「麑藩名勝考」が読めていないのである。少なくとも、そんな学者先生に判断できるほど、白尾國柱の「麑藩名勝考」はつまらない書物ではない。

○第一、『白尾国柱略伝』が、本当に、鹿児島県史料「麑藩名勝考」の冒頭を飾るに相応しい文だと、ご本人は思っていらっしゃるのだろうか。おまけに、この『白尾国柱略伝』には記名記事となっていない。こんな恥ずかしい文を書いたのが誰か。知りたくて仕方が無い。まるで無責任な話である。

○それがどんな文であるかは、次のブログに書いている。
  ・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『鹿児島県史料「麑藩名勝考」について』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/28884029.html

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