○廬山の仏教に関係して、前回、「廬山と安世高」と題して、安世高の話を書いたが、廬山と言えば、何と言っても慧遠を忘れることはできない。
○ウィキペディアフリー百科事典が載せる慧遠は、次の通り。
慧遠 (東晋)
慧遠(えおん、334年 - 416年)は、中国の東晋、廬山に住んだ高僧。隋代、浄影寺の慧遠と区別
して廬山の慧遠とも呼ばれる。俗姓は賈氏。中国仏教界の中心的人物の一人である。
【生涯】
雁門郡楼煩県(山西省)出身の人である。21歳で釈道安の元で出家した。道安に随って各地を転々
としたが、襄陽に住した時に前秦の苻堅が侵攻し、道安を長安に連れ去ったため、慧遠は師と別れて
南下し、湖北省の荊州上明寺に移った。
その後、江西省の潯陽に至って廬山に入り、西林寺、のち東林寺に住した。それ以後30年余り、慧
遠は一度も山を出なかったという。この事実を踏まえて創作された「虎渓三笑」の話が知られる。
401年(隆安5年)に、鳩摩羅什が関中に入り国師として後秦の都長安に迎え入れられると、慧遠は
鳩摩羅什と往復書簡を交わし、新出の経典についての疑問点等をただした。その書簡集が『大乗大義
章』である。
402年(元興元年)、慧遠は同志123名とともに、廬山山中・般若台の阿弥陀仏像の前で、念仏実践
の誓願を立てる。これによって、慧遠は白蓮社の祖と仰がれることとなる。ただし、慧遠の念仏行は、
後世の浄土三部経に基づく専修念仏とは異なり、『般舟三昧経』に基づいた禅観の修法であった。
さらに、当時、廬山を含む長江中流域の覇者であった桓玄に対して、仏法は王法に従属しないこと
を正面きって説いたのが『沙門不敬王者論』である。
持戒堅固な慧遠は戒律の整備にも努め、『十誦律』の翻訳及び普及に尽力した。
○また、ウィキペディアフリー百科事典の「中国の仏教」の項目では、三国・両晋・五胡十六国時代の中国仏教について、次のように載せる。
中国の仏教
【三国・両晋・五胡十六国】
紀元3世紀頃より、サンスクリット仏典の漢訳が開始された。この時代、華北のみならず、江南地
方でも、支謙や康僧会によって訳経が始まり、それと同時に仏教が伝えられた。一方で、中国人の出
家者が見られるのは、この時代からである。記録に残る最初の出家者は、朱士行である。また、この
時代の主流は、支遁(314年 - 366年)に代表される格義仏教であった。訳経僧の代表は、敦煌菩薩
と呼ばれた竺法護である。
紀元4世紀頃から、西方から渡来した仏図澄(? - 348年)や鳩摩羅什(344年 - 413年)などの高
僧が現われ、旧来の中国仏教を一変させるような転機を起こす。前者は後述の釈道安(314年 - 385
年)の師であり、後者は、唐の玄奘訳の経典群に比較される程の数多くの漢訳仏典を後世に残している。
仏図澄の弟子である釈道安が出て、経録(経典目録)を作り、経典の解釈を一新し、僧制を制定し
たことで、格義仏教より脱却した中国仏教の流れが始まる。釈道安の弟子が、白蓮社を結成した廬山
の慧遠(334年 - 416年)である。
○中国に仏教を伝えたのは、後漢の明帝(在位57~75)の頃、迦葉摩騰や竺法蘭だと言われる。その後、桓帝(在位146~167)の頃、安世高や支婁迦讖などが来朝している。
○しかし、中国で、本格的に仏教が受容され始めるのは、5世紀頃になってからである。1世紀から4世紀までは、揺籃期だと言えよう。その揺籃期から仏教受容の過渡期に存在するのが廬山の慧遠だと言える。
○ちなみに、中国浄土教の開祖とされる曇鸞(476~542)が出て来るのは、廬山の慧遠から遅れること、およそ1世紀となっている。
○廬山の慧遠についても、中国の検索エンジン百度の百度百科が遙かに詳しい。
慧远
慧远大师(334—416),俗姓贾,中国东晋时人,出生于代州(今山西代县)世代书香之家。居庐山,
与刘遗民等同修净土,为净土宗之始祖。远公从小资质聪颖,勤思敏学,十三岁时便随舅父令狐氏游学
许昌、洛阳等地。精通儒学,旁通老庄。二十一岁时,偕同母弟慧持前往太行山聆听道安法师讲《般若
经》,于是悟彻真谛,感叹地说:“儒道九流学说,皆如糠秕。”于是发心舍俗出家,随从道安法师修行。
【人物介绍】
慧远,俗姓贾,雁门楼烦(约在今山西宁武)人。出生于代州(约代县)初学儒家、老、庄,二十一
岁往太行恒山(今河北曲阳西北)参见道安,听讲《放光般若》,豁然开悟后,以为佛教远胜儒、道,
遂从而出家。入庐山住东林寺,领众修道。为道安的上座弟子,善于般若,并兼倡阿毗昙、戒律、禅法。
因此中观、戒律、禅、教及关中胜义,都仗慧远而流播南方。曾与刘遗民等人,在阿弥陀像前立誓,这
是佛教史上最早的结社,这一结社的目的就是专修“净土”之法,以期死后往生“西方”。故后世净土
宗尊为初祖。当时的名仕谢灵运,钦服慧远,替他在东林寺中开东西两池,遍种白莲,慧远所创之社,
逐称“白莲社”,因此,后来净土宗又称“莲宗”。 [1] 净土宗的基本经典有《无量寿经》《观无量
寿经》《阿弥陀佛》《往生论》等。
詳しくは、以下を参照されたい。
http://baike.baidu.com/link?url=M787WaRG1FjSYBaBGoerNH8HIBQNVZjHd2nH4Z0mRA2S7PgcQnPy3SnmW_hjcgm9jWDpZThBBdrk4KwxoirV7G5vmWOHBrRgQfN39y8xVNqAQkTbtVYp6svEvcl-YS_c
○日本では、中国浄土教の開祖として、曇鸞が喧伝されることが多いが、その1世紀も前に、廬山では慧遠に拠って浄土教が開かれていたことは注目に値する。もちろん、慧遠の浄土教は、日本に伝来した浄土教とは、かなり異質なものであったことは間違いないけれども。