○今回、神埼を訪れたのは、日宋貿易で神埼荘が重要な拠点であったことに拠る。ウィキペディアフリー百科事典が載せる「神崎荘」の項目は、極めて簡単なもので、前にも案内しているが、再度載せると、
神崎荘
神埼荘(かんざきのしょう)は、平安時代~室町時代にかけて肥前国にあった荘園。神崎荘とも。
皇室領。
【所在】
肥前国神埼郡。現在の佐賀県神埼市。
【規模】
正応5年(1291年)に3000町。
【起源】
承和3年(836年)に勅旨田になった690町が起源で、長和4年(1015年)以前に立荘、皇室領として歴代
天皇・上皇に相伝された。
【領主】
皇室領(後白河法皇→後鳥羽上皇ら)→三浦氏(三浦泰村)→皇室領(後嵯峨上皇ら)
【終焉】
文永・弘安の役で恩賞地配分の対象とされたため細分化され、南北朝時代には名前だけを残して荘
園としての実態は失われた。
○ついでに、「日宋貿易」の項目も案内すると、
日宋貿易
日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝(南宋)の間で行われた貿易である。10世紀
から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。中国
の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。
【概要】
貿易は朝鮮半島の高麗を含めた三国間で行われ、日本では越前国敦賀や、鎌倉時代には多くの宋人
が住み国際都市となった博多が拠点となる。
【歴史】
[平安時代]
960年(天徳4年)に成立した北宋は、貿易を振興する目的で各地に市舶司を設置し、日本、高麗と
の貿易や南海貿易を行った。日本では大宰府の監督のもとで鴻臚館貿易が行われていたが、大宰府は
平安時代になると、機能が消失したわけではないものの衰微する。日宋間の正式の外交貿易は行われ
ず、一般人の渡航は禁止され、宋の商人は主に博多や越前敦賀へ来航し、私貿易が行われていた。
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を
行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢
力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年(保元3
年)に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を
排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行
う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3
月に正式に国交を開いて貿易振興策を行う。一方で、宋銭の大量流入で貨幣経済が発達し物価が乱高
下するようになったり、唐朝滅亡以来の異国に対する社会不安なども起こっている。
○上記説明にもあるように、遣唐使の停止(894年)以来、中断していた日本と中国との交易が再開したのが日宋貿易である。その中心となった人物が平忠盛・清盛親子である。
○その日宋貿易で神崎荘が拠点となったのには、大きな意味がある。それは日宋貿易がどのようなルートを通じて行われていたかである。上記説明にもあるように、後に平清盛によって博多港が整備され、日宋貿易は博多経由となるけれども、それ以前は、神崎荘経由であったと思われる。
○問題は、神崎荘から先、日宋貿易はどのようなルートを通っていて、中国の何処まで行っていたかと言うことである。そのヒントとなるものが「平家物語」にある。
○「平家物語」前半に於ける俊寛僧都の占めるウエイトはかなり大きい。ある意味、「平家物語」前半部の俊寛は悲劇のヒーローとして描かれている。その俊寛僧都が流されたのが鹿児島県三島村硫黄島である。
○硫黄島で最大の有名人は俊寛僧都だが、硫黄島には安徳天皇の御墓が存在する。史実としては、安徳天皇は壇ノ浦の戦いで崩御なさったことになっているけれども、硫黄島では、安徳天皇は硫黄島に遁れ、この地で亡くなったことになっている。
○それほど、硫黄島は平家との結び付きが強いし、吐噶喇列島のどの島にも平家の落人伝説は残されている。それがどういう理由からか、誰も理解しようとしないし、解明できない。
○何故、清盛は俊寛を硫黄島に流したのだろうか。何の意味も無いように見えるけれども、決してそうではない。当時、硫黄島は平家にとって、重要な島であり、平家の目の届く島であった。それで、俊寛を硫黄島に流罪とした。
○もちろん、神崎荘は「平家物語」にも出現する。俊寛僧都と共に流された平判官康頼と丹波少将成経は、神崎荘経由で京へ上ることとなる。そういうルートが日宋貿易のルートであったことを窺わせる。
○当時、日本三津の筆頭が坊津であったことも、そのことを裏付けている。つまり、日本からは坊津を発ち、中国、舟山群島を経由し、寧波へ上陸した。そのルートは、次のようになる。
・坊津→硫黄島(56辧
・硫黄島→口永良部島(36辧
・口永良部島→トカラ列島口之島(59辧
・トカラ列島口之島→トカラ列島中之島(14辧
・トカラ列島中之島→トカラ列島諏訪之瀬島(28辧
・トカラ列島諏訪之瀬島→トカラ列島悪石島(24辧
・トカラ列島悪石島→トカラ列島宝島(50辧
・トカラ列島宝島→中国・舟山群島(600辧
・中国・舟山群島→寧波(150辧
○このルートは、既に三世紀には確立している。日本と中国との私貿易が三世紀ころには盛んに行われていた。それを記録しているのが「魏志倭人伝」、
・計其道里當在会稽東冶之東。
の記事である。
○そういうことを確認することが今回の旅行目的であった。まだまだ知らないことが多過ぎる。こうやって丁寧に、一つ一つ検証して行くしなかい。