○前々回、『大和三山の順序』と題して、文化庁が大和三山を、
・香具山(152.4m)
・畝傍山(199.2m)
・耳成山(139.7m)
と並べることに異を唱えた。古来、大和三山は、
・畝傍山(199.2m)
・香具山(152.4m)
・耳成山(139.7m)
と決まっている。それを並び換えるには、相応の理由が必要だろう。もちろん、大和三山を古来、
・畝傍山(199.2m)
・香具山(152.4m)
・耳成山(139.7m)
と並べているのには、それ相応の理由がある。
○その理由として、畝傍山が天孫降臨の世界山である話をした。それなら、誰が何と言おうと、畝傍山が大和三山筆頭に来ることは間違いない。日本に天孫降臨の世界山より立派な山は存在しないはずである。
○それだけでも、もう十分なのだが、「古事記」や「日本書紀」は、それ以上に畝傍山を特記しているから凄い。やはり、畝傍山が日本第一の山であることは間違いない。それが畝傍山と神武天皇の関係である。
●宮崎県西諸県郡高原町大字浦牟田狭野に、狭野神社が鎮座まします。高原町観光協会のHPに、狭野神社についての案内がある。
狭野神社について
ご祭神:神日本磐余彦天皇(カムヤマトイハレヒコノスメラミコト:神武天皇)
第5代孝昭天皇の御代に神武天皇ご生誕の地にご創建されたのが始まりと伝えられています。
神武天皇はご幼名を狭野尊(サノノミコト)と申し上げますが、皇族のご幼名は生まれ育った地名を
付ける慣習があった事から、当地の地名の狭野が由来すると伝えられており、当社より西に1キロ程に
有る末社の皇子原神社がご生誕の地といわれます。
また、直線の参道では日本で一番長いといわれる狭野神社の参道沿いは美しい杉並木となっており、
ご参拝前に歩くと心が清められる感じが致します。
当社の氏子が中心となり行われる祭祀に、2月18日の苗代田祭(ベブがハホ)、5月16日の御田植祭、
12月第1土曜日の狭野神楽がございます。
http://www.takaharu-tourism.jp/look/sanojinja/
●ウィキペディアフリー百科事典が案内する狭野神社は、次の通り。
狭野神社
狭野神社(さのじんじゃ)は、宮崎県西諸県郡高原町にある神社である。旧社格は県社で、後に官
幣大社宮崎神宮の別宮となった。現在は再び独立の神社となり、神社本庁の別表神社になっている。
霧島六所権現の一社である。
【祭神】
神日本磐余彦天皇(神武天皇)を主祭神とし、吾平津姫命・天津彦火瓊瓊杵尊・木花開耶姫命・
彦火々出見尊・豊玉姫尊・鸕鶿草葺不合尊・玉依姫命を配祀する。社名は神武天皇の幼名「狭野尊」
に因むものである。
【歴史】
孝昭天皇の時代、神武天皇が誕生した地(高千穂峰の麓の皇子原)に創建されたと伝えられる。
その後、数度にわたる霧島山の噴火により社殿の焼失と遷座を繰り返しており、現在地に遷座した
のは慶長15年(1610年)である。
明治6年に県社に列格したが、大正4年に官幣大社宮崎神宮の別宮に指定された。1898年からは、
高木兼寛が宮崎神宮の大造営と同時に、神武天皇ゆかりの狭野神社の社殿の改修も行った。第二次
大戦後に再び独立の神社となり、昭和51年(1976年)に神社本庁の別表神社に列格した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
●江戸時代の狭野神社については、「三国名勝図会」が詳しい。
狭野大権現社(地頭館より午未の方、一里十二町)
蒲牟田村、狭野にあり。狭野、或は佐野と書す。即此処の地名にて、俗に佐野原といふ。祭神瓊々
杵尊、彦火々出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、豊玉姫、玉依姫の六座なる故、霧島六所権現とも号す。
霧島権現六社の一なり。東掖宮、神武天皇、吾平津媛を祭り、西掖宮、経津主命、武甕槌命(以上各
神像を安す、)を祭り、四所宮、大巳貴命一座、伊弉諾尊、菊媛姫、伊弉冉尊の三神一座、罔象女一
座、大山祇一座祭る。(此外にも支祠多けれども今略す。)狭野の地は、神武天皇降誕の霊蹟なり。
因て當社を創建ありといふ。神武降誕の神跡は舊蹟の部、其條下に詳なり。當社本宮、瓊々杵尊を奉
祀して、第一座とす。其他の五座は同殿に祭られしと見えたれば、是神武の御時に、其皇曾祖王父た
る、瓊々杵尊を崇奉し玉ひしなるべし。右は天子皇宮に於て、祖宗の神を親察し玉ふは、所謂共殿同
床の義にて、今の俗間、祖先の神位を家内に祀るがごとし。神武を東宮に祭るは、即此地に降臨の故
にて、蓋し後の従祀なり。霧島権現六社の内、當社を除て外五社には、神武を別宮に祭れることなき
を以て知べし。社傳には、孝昭天皇の御宇に、當社を創建し玉へりと記しぬ。社記曰、文暦元年甲午
十二月廿八日、霧島山大火、(社記に、山上火けし事を皆神火と記せり。當初の諺に依れり。)當社
並に別当寺、焼亡に及ぶ。於是當社、及び別当寺を、同郡高城邑、東霧島勅詔院に遷す。慶長十七年
寺社共に舊地に復る。即ち今の地なり。後又享保の山火に厄せらる。其詳なるは、別当神徳院の條に
記す。當社の辰巳二十二町許、狭野方域に上古當社のありし跡あり。土俗是を権現が洞といふ。當社
は霧島山東北の麓にて、原野の間にあり。社地林叢森然たり。例祭二月初酉、九月廿九日、十一月中
酉日。當邑の総鎮守なり。社司押領司氏、別当を神徳院といふ。
◎狭野神社が鎮座まします宮崎県西諸県郡高原町大字浦牟田狭野は、霧島山高千穂峰の東北になる。狭野神社は上記説明にあるように、神武天皇が誕生した地を顕彰して建立された神社である。当古代文化研究所ではもちろん、何度も狭野神社への参詣は済ませている。最近のブログでは、次のように載せている。
・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『狭野大権現社』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40715040.html
◎併せて、狭野神社の別当寺であった霧島山佛華林寺神徳院についても、参照されたい。
・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『霧島山佛華林寺神徳院』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40716205.html
◎当古代文化研究所の研究では、邪馬台国三山を次のように規定している。
・うねびやま=霧島山(1700叩
・かぐやま=桜島山(1117叩
・みみなしやま=開聞岳(924叩
◎判るように、神武天皇がご誕生されたのは狭野神社であり、「うねびやま=霧島山(高千穂峰)」の東北と言うことになる。ところが奈良県橿原市へ行くと神武天皇の御陵、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)が存在する。その神武天皇の御陵が存在するところは、奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵と言うことで、畝傍山の東北となっている。
◎つまり、神武天皇は畝傍山の東北麓で生まれ、畝傍山の東北麓に眠っていることになる。これは決して偶然なのではない。明らかに、「古事記」や「日本書紀」が造作した結果であるとするしかない。
◎どういうことかと言うと、奈良県橿原市に存在する畝傍山は、どう考えても神武天皇を意識して命名された山であるとするしかない。古来、人は故郷で生まれ、故郷に眠るのが原則である。神代三山陵の先坣僑位ではないけれども、人々は神武天皇の産土をそのまま大和国に再現したのである。それが奈良県橿原市の畝傍山である。
◎つまり、畝傍山は天孫降臨の世界山であり、神武天皇の産土と言うことになる。そんな山を香具山の次に置く文化庁の感覚は、どう考えてもおかしい。戦前なら間違いなく不敬罪ものだろう。私が早急な訂正をお願いするのは、そういうことだからである。
◎こういう宗教とか精神性に関するものは非常にデリケートな問題である。ことが大事に至らない前に善処されることを望む次第である。文化庁がご存じ無いからこうやって丁寧に説明している。文化庁にそれ以上の認識があれば別だが。しかし、日本で畝傍山以上に崇高な山が存在することはあり得ない。文化庁の判断を期待したい。