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俊寛僧都と硫黄島

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○最初に鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島を訪れたのは、2009年5月30日であった。その時の感動は今でも忘れられない。詳しくは、以下のブログに書いている。
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『俊寛の硫黄島』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27242814.html
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『硫黄島に立つ俊寛像』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27275516.html

○もともと、この時、硫黄島を訪れたのは、梅若玄祥の「三島村・薪能「俊寛」」を観るためであった。4月1日に、指宿在住のブログ仲間、remi4123さんから硫黄島で薪能「俊寛」が開催されることを聞いて、すぐに申し込んだのだった。当時、普段、枕崎から硫黄島へ渡る交通手段は無かった。薪能「俊寛」で臨時便が枕崎から硫黄島まで出ると言うのは、私にとって、願っても無い幸運であった。

○と言うのは、当時の私の研究では、枕崎や坊津から硫黄島や口永良部島を経て吐噶喇列島へ渡るルートが遣唐使船南島ルートであり、その逆が日本への仏教伝来ルートだと思っていて、それを確認するために、どうしても、枕崎から硫黄島へ渡りたかった。その願いが今回叶うと言うのである。

○梅若玄祥の「三島村・薪能「俊寛」」は、また、申し分なく、素晴らしいものであった。梅若玄祥の「三島村・薪能「俊寛」」については、以下のブログに存分に書いている。
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『三島村・薪能「俊寛」』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27307678.html
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『続 三島村・薪能「俊寛」』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27316793.html

○もちろん、硫黄島を訪れる前に、俊寛僧都及び平家物語、謡曲「俊寛」については、十分事前学習して臨んだつもりである。
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『平家物語「俊寛」』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27041966.html
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『鬼界が嶋の祝詞』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27067277.html
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『卒塔婆流し』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27098287.html
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『赦文及び足摺』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27105102.html
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『丹波少将成経と平判官康頼のその後』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27127686.html
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『俊寛僧都の最期』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27135696.html
  ・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『謡曲「俊寛」』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27163266.html

○硫黄島最大の有名人が俊寛僧都であることは間違いない。硫黄島ではあらゆるものが俊寛僧都に託して存在する。俊寛僧都は12世紀の人物である。ウィキペディアフリー百科事典には、次のように載せる。
      俊寛
   俊寛(しゅんかん、康治2年(1143年) - 治承3年3月2日(1179年4月10日))は平安時代後期の
  真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。
   村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院子
  内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E5%AF%9B

○「平家物語」を読むと判るのだが、「平家物語」の前半部で俊寛僧都の占める地位は極めて高い。ある意味、「平家物語」の前半部のヒーローは俊寛僧都だと言って過言では無い。何故、「平家物語」で俊寛僧都はそういう重要な登場人物なのだろうか。

○そういう疑問に誰も応えてくれない。したがって、自分で考える以外に方法は無い。「平家物語」の前半部のヒーローが俊寛僧都であるには、当然、それなりの意味がある。それが「平家物語」作者の意図するところであることも間違いない。

○ある意味、それは仏縁とも言えよう。俊寛僧都は仏様に導かれて硫黄島へ流されたのである。現代では誰もそういうふうに「平家物語」を読まない。と言うか、読めない。

○それは「平家物語」が軍記物語と言うジャンルに括られることからも明らかである。「平家物語」を丹念に読むと、「平家物語」が軍記物語であることは考えられない。確認の為、ウィキペディアフリー百科事典を見てみたい。
      平家物語
   『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描い
  た軍記物語である。
   保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、
  没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出してい
  る。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、
  広く知られている。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E

○「平家物語」は何か。そう問われたら、それは仏教説話集だと答えるのが正解だろう。それも琵琶法師に拠って語られた語り物であって、平曲と呼ばれた。「平家物語」には異本が多数存在するのも、そういう理由からであろう。語られているうちに、どんどん内容が発展変容するのは止むを得ないことである。

○鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島へ出掛けると、遠くから目にするのは硫黄岳の噴煙だろう。そして硫黄島へ入ると、そこは長濱港である。長濱港に上陸して長濱集落へ向かう。その長濱集落の中心に鎮座ましますのが熊野神社である。

○面白いのは、硫黄島へ熊野権現を勧請したのが平判官康頼と丹波少将成経となっていることである。その話は、『康頼祝言(やすのりのりと)』にある。
   丹波少将・康頼入道は、もとより熊野信じの人々なれば、「いかにもして此の嶋のうちに熊野の
  三所権現を勧請し奉りて、帰洛のことを祈り申さばや」と云ふに、俊寛僧都は天性不信第一の人に
  て、是をもちいず。

○もちろん、『康頼祝言(やすのりのりと)』に続くのが『卒塔婆流し』であることは言うまでも無い。『卒塔婆流し』で、平判官康頼は千本の卒塔婆を作り、再び祈り申し上げて、その卒塔婆を流した。
   南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、鎮守諸大明神、殊には熊野権現、厳島大明神、
  せめては一本なりとも、都へ伝へてたべ。

○卒塔婆流しの卒塔婆が安芸国厳島大明神へ流れ着いたのは決して偶然では無い。上記の祈りを見ると判るように、最初から、平判官康頼は安芸国厳島大明神へ流れ着くように祈っている。もちろん、それはこの話が「平家物語」と言う物語りだからである。そういうふうに物語が造作されている。

○それは何故か。それは安芸国厳島大明神が平家所縁のものであるからに他ならない。同じように、硫黄島もまた平家所縁のものであることは間違いない。そういうふうに「平家物語」は作られている。

◎「平家物語」はそういう物語りであって、決して軍記物語などではない。「平家物語」を知らない者が「平家物語」を軍記物語だと規定した。それだけは間違いない。

◎今読んでも、「平家物語」は断然、面白い。ただ、仏教を知らないでは「平家物語」は読めない。ある意味、「平家物語」は仏教徒の重要な経典の一つでもある。だから、現代人には、なかなか「平家物語」は読めない。

◎硫黄島では今でも俊寛僧都が生きている。仏教徒である俊寛僧都にとって、硫黄島は故郷とも言える島である。次回はそういう話をしたい。
 

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