○高適の詩を、『同諸公登慈恩寺浮圖』詩から、『田家春望』詩、『詠史』詩、『銅雀妓』詩、『宋中』詩、『夜別韋司士』詩、『送李少府貶峡中王少府貶長沙』詩、『醉後贈帳九旭』詩、『人日寄杜二拾遺』詩と続けている。今回は、高適の『封丘作』詩である。
【原文】
封丘作
高適
我本漁樵孟諸野
一生自是悠悠者
乍可狂歌草澤中
寧堪作吏風塵下
只言小邑無所為
公門百事皆有期
拜迎長官心欲碎
鞭撻黎庶令人悲
歸來向家問妻子
舉家盡笑今如此
生事應須南畝田
世情盡付東流水
夢想舊山安在哉
為銜君命且遲回
乃知梅福徒為爾
轉憶陶潛歸去來
【書き下し文】
封丘作
高適
我れは本、孟諸野の漁樵にして、
一生、是れにより、悠悠なる者なり。
乍ち、草澤中に歌に狂ふばかりに、
寧ろ風塵の下に吏と作るに堪ふ。
只だ小邑には、為す所無しと言ふのみにして、
公門は百事、皆、期有り。
長官を拜迎して、心を碎かんと欲し、
黎庶を鞭撻して、人をして悲しましむ。
歸來、家に向かひて、妻子に問ふに、
家を舉げて笑ひを盡くし、今は此くの如し。
生事は、應に南畝の田を須ふべく、
世情は、盡く東流の水に付すべし。
舊山を夢想すれば、安くにか在らんや、
君命を為銜すれば、且に遲回せんとす。
乃ち梅福の徒だ爾を為すを知り、
轉た陶潛の歸去來を憶ふ。
【我が儘勝手な口語訳】
自分は、もともと、宋国の孟諸野で、漁師・樵を営む者であって、
漁師と樵を営んで居れば、悠々自適の生涯を送れるはずであった。
それが民間の中にあって、歌に夢中になってしまい、
結果、俗世間の中で、俗吏であることに辛抱している。
ただ地方の小村には、することが何も無いと言うだけで、
都長安には何でもあって、誰もが志を抱いて生きている。
上役に諂い追従することに、心を砕くばかりで、
一般庶民には厳しく取り立て、人々を不幸にするばかりである。
帰ろうとして、我が家に向かえば、妻や子供に対して、
家中が笑い声に包まれることを望んでいる自分が居る。
我が家の生計は、当然、僅かな田畑に頼るしかないし、
自分の生き様としては、世の中の流れに従って生きるしかないのだ。
故郷を懐かしく思い出せば、此処は自分の居場所ではないし、
君命に従うことを尊重すれば、まるで徘徊しているようなものだ。
すなわち、前漢の梅福が都を捨てて故郷の寿春に帰り、仙人となったように、
また、東晋の陶淵明が官職を捨てて故郷の廬山の麓に帰り、歸去來兮辞を作ったように。
○意外と、高適の詩は難解である。それは高適が目指しているのが道士であるからに他ならない。上記の高適の『封丘作』詩でも判るように、高適が理想とするのは梅福であり、陶淵明だと言う。なかなか目指す所が高い。
○実際、陶淵明に言及する人は多い。しかし、そのほとんどは陶淵明の名は知っているけれども、彼の精神性の高さは、ご存じない。本ブログでは、2013年6月、2014年6月と、2回、陶淵明の故郷、廬山鎮を訪れている。
・書庫「廬山・九江」:42個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1234221.html?m=l&p=1
・書庫「廬山鎮:東林寺」:8個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1255209.html?m=l
○陶淵明自体が、なかなか理解することの難しい人物である。それは陶淵明が詩人ではなくて、思想家だからである。感性と理性をフル稼働させない限り、陶淵明や高適の詩は、理解されない。