○これまで、『陌上桑』詩を次のように見て来た。
¥綏(漢楽府诗)
陌上桑(曹操詩作)
o綏(魏文帝曹丕詩)
わ綏(魏國曹植詩)
○今回案内するのは、呉均詩作の『陌上桑』である。
【原文】
陌上桑(呉均詩作)
裊裊陌上桑,蔭陌復垂塘。
長條映白日,細葉隱鸝黃。
蠶飢妾復思,拭淚且提筐。
故人寧如此,離恨煎人腸。
【書き下し文】
陌上桑(呉均詩作)
裊裊たる陌上の桑、蔭陌は復た塘に垂る。
長條として白日に映じ、細葉は鸝黃を隱す。
蠶は飢え妾は復た思ふ、淚を拭き且つ筐を提ぐ。
故人は寧ろ此くの如し、離恨は人の腸を煎る。
【我が儘勝手な私訳】
さわさわと春風に揺れる畦道に生える桑の木、葉蔭は池の堤まで垂れ下がっている。
長い枝葉は陽光をいっぱいに浴びて、桑の細い葉は高麗鶯を隠すほど繁茂している。
夫を思っているばかりの妻は、蚕に桑を与えず飢え、涙を流し形見の品を眺めるばかり。
昔の人の思いはこの通りである、離別の悲哀は人の腹を熱くして止まない。
○呉均なる詩人もまた古い詩人である。中国の検索エンジン百度の百度百科が案内する呉均は、次の通り。
吴均 (南朝文学家、史学家)
吴均(469~521年),字叔庠,南朝梁文学家、史学家,吴兴故鄣(今浙江安吉)人。出身贫寒,性
格耿直,好学有俊才。沈约见其文,倍加称赏。梁天监二年(503),吴兴太守柳恽召为主簿,常引与
赋诗。建安王萧伟趋贤重士,召吴均为记室,掌文翰;萧伟迁江州(今江西九江),补吴均为国侍郎,
兼府城局。后柳恽又转荐吴均于梁武帝,帝召之赋诗,深为赏识,任为侍诏,累升至奉朝请。
吴均通史学。在任奉朝请期间,先是上表欲撰《齐书》,求借《齐起居注》及《群臣行状》,武帝不
许。遂私撰《齐春秋》,成稿30卷。如实称武帝为齐明佐命,武帝不悦,以“其书不实”为名,使中书
舍人刘之遴诘问数十条,竟支离无对。武帝下令焚之,并免其职。不久,武帝又召令撰《通史》,起三
皇迄齐代。吴均撰本纪、世家已毕,惟列传未就而卒。吴均还注范晔《后汉书》90卷,著《庙记》10
卷、《十二州记》16卷、《钱唐先贤传》5卷等。
为文清拔,工于写景,尤以小品书札见长,诗亦清新,多为反映社会现实之作,为时人仿效,号称
“吴均体”。《与朱元思书》以简洁而传神的文笔,描写富春江两岸清朗秀丽景色,读后如亲临其境;
《与施从事书》、《与顾章书》,将青山、石门山景物描绘得如诗如画、惟妙惟肖,为六朝骈文名著。
现存的志怪小说《续齐谐记》,是继南朝宋东阳无疑《齐谐记》而作,故事曲折生动,人物性格鲜明,
鲁迅誉为“卓然可观”。其中《清溪神庙》、《阳鹅笼》尤为出色。吴均诗文著作较多,惜多散佚。
https://baike.baidu.com/item/吴均/6880?fr=aladdin
○呉均は、吴兴故鄣(今浙江安吉)の人だと言う。呉国の呉さんと言うのだから納得させられる。もっとも、安吉県は田舎であるし山の中である。湖州市までは行ったことがある。
○呉均詩作の『陌上桑』は、しっかり、『陌上桑』の約束事に則って作られている佳詩である。こういう早い時代から中国では、このような詩が作られていることに驚く。