○内之浦三岳参りが本来、神代三山陵巡りであり、それは祖霊崇拝であった。ちなみに、真実の神代三山陵とは、次のようなものである。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○それは、具体的には、吾平山陵脇の鵜戸神社を出発し、甫与志岳へ向かい、縦走の途中に黒尊岳を通り、最後に国見山まで行き、内之浦の高屋神社まで歩くものではなかったか。こういう行事は、宗教に関するものであることがほとんどである。そう考えると、このように考えるのがもっとも自然である。
○鵜戸神社と高屋神社を挙げたが、必ずしも、神社の例祭だったと言うわけではない。当時であれば、鵜戸神社にも高屋神社にも、当然、別当寺が存在したわけである。であれば、寺の仏事であった可能性も高い。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○それは、具体的には、吾平山陵脇の鵜戸神社を出発し、甫与志岳へ向かい、縦走の途中に黒尊岳を通り、最後に国見山まで行き、内之浦の高屋神社まで歩くものではなかったか。こういう行事は、宗教に関するものであることがほとんどである。そう考えると、このように考えるのがもっとも自然である。
○鵜戸神社と高屋神社を挙げたが、必ずしも、神社の例祭だったと言うわけではない。当時であれば、鵜戸神社にも高屋神社にも、当然、別当寺が存在したわけである。であれば、寺の仏事であった可能性も高い。