○浙江省舟山群島、普陀山から、初めて洛迦山を眺めたのは、2012年3月11日の11時ころだった。普陀山から眺める洛迦山は、観音様のお姿そのものである。普陀山に参詣する誰もが、そのお姿を遙拝する。
○2012年7月19日に、初めて洛迦山に詣でた。その後、2012年11月10日と、2013年3月17日と、3回、洛迦山に参詣している。普陀山や洛迦山は、日本仏教伝来に関して、何とも気になる島である。
○その洛迦山の解脱門の先に、王安石の「遊洛迦山」詩碑が建てられていた。本ブログでは、既に紹介済みである。
・書庫「普陀山・洛迦山」:ブログ『王安石:遊洛迦山』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36916541.html
○今回、九華山へ参拝したが、九華山にも王安石は足跡を残している。まるで王安石の後を追い掛けているような気分になるが、彼は敬虔な仏教徒である。私は、一応、仏教徒ではあるが、ほんの物好きに過ぎない。彼のような崇高な精神性がまるで無い。
○王安石が九華山の化城寺で作った詩が、「宿化城寺閣」である。
【原文】
宿化城寺閣
王安石
白雲如驅羊
滿谷不可量
散作兜羅錦
中藏寶月光
山窗夜靜
時聞葉鳴廊
僧房杳清寐
佛爐篆餘香
吟猿遞空壁
宿鳥驚飛霜
起坐四面顧
芙蓉蔚蒼蒼
人生始得飽
豈必二頃糧
金地黄粒米
當味齋廚香
【書き下し文】
化城寺閣に宿る
王安石
白雲は驅羊の如く、
滿谷は量るべからず。
散じて作す、兜羅の錦、
中に藏す、寶月の光。
山窗に、夜は靜にして、
時に聞く、葉の廊に鳴るを。
僧房、杳として清寐
佛爐、篆として餘香
吟猿は空壁を遞り、
宿鳥は飛霜に驚く。
起坐して四面顧すれば、
芙蓉の蔚の蒼蒼たり。
人生、始めて飽を得、
豈に必ずしも二頃の糧ならんや。
金地に黄粒の米、
當に齋廚の香を味ふべし。
【我が儘勝手な私訳】
見上げると、空には白雲が羊の群れのように天翔け、
見下ろすと、恐ろしいまでの千仞の谷が切り立っている。
化城寺内の壁面は、釈迦牟尼佛涅槃画が飾られ、
化城寺内には、佛法の月の光が充ち満ちている。
窓の外には、九華山山上の夜の闇が静かに広がり、
時折、回廊の石畳を木の葉が走るのが聞こえて来る。
化城寺の僧坊は、杳杳冥冥として深い眠りの中にあり、
化城寺の巨大な香炉からは、はっきりと余香が香って来る。
猿は啼きながら化城寺の壁面を伝って捩じ登るし、
軒の鳥は軒先から落下する氷柱に驚きの声を挙げている。
朝早く起き、広い法堂へ向かうと、
法堂一面を僧侶たちが埋め尽くし、読経している。
私は人生に於いて、始めて満足を得たと思わずにはいられない、
それは必ずしも、蘇秦が言う二頃田の食料だけではないのだ。
化城寺で出される朝食は、粗末な黄粒の米に過ぎないのだけれども、
当然、化城寺齋廚の大変な御馳走を味わうことに、私は感謝せずにはいられない。
○現代人の私は、ただ、王安石の精神の高さに驚くしかない。それでも、ブログ『王安石:遊洛迦山』にも書いていることだが、王勃の「觀音大士讚」を読むと、更に高所に立つ王勃の精神性に恐れ入る。人類は日進月歩していると誰もが勘違いしている。人類は日々、精神的退化の一途を辿っているに過ぎない。
○2013年6月14日夕方に、九華山化城寺に参拝した。現代の化城寺は、まるで寺の呈をなしていない。寺の扁額には、「九華山歴史文物館」の文字が掲げられていた。寺内には巨大な香炉があって、大勢の参拝客が点す御香が煙っているけれども、肝心の寺が寺で無くなっている。
○九華山自体も、現代の九華山は完全な観光地と化している。本来、ここは修行の地であったのに、その面影はまるで無い。もっとも、そういうことは何処でも同じことである。日本の比叡山や吉野山、高野山にしたところで、同様である。
○現代の九華山で、地蔵菩薩を感得しようと入山する人がどれほど居るのだろうか。観光客で賑わう九華山に参拝しながら、そんなことを思った。