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三国名勝図会:高隅嶽(新城)

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○前回、「三国名勝図会」が案内する高隅嶽(高隅)について述べた。それに引き続き、今回は、「三国名勝図会」が案内する高隅嶽(新城)について、述べてみたい。
      新城
     (本府より辰方、海道七里にあり。本藩公族、島津要人久寛が所領なり。其祖先を島津右馬頭
      忠将といふ。大中公の弟なり。其子右馬頭以久嗣ぐ。垂水邑主なり。以久の嗣子守右衛門尉
      彰久は、貫明公の第二女を承す。貫明公、彰久の室に鹿屋を割き、粧田三千七百石を賜ふ。
      新城に居る。世に新城翁主と称す。翁主相模守忠仍を生ず。忠仍封を嗣ぐ。忠仍の第四子を
      大和守久章といふ。慈眼公の女を承す。慈眼公、久章の室に、粧田千石を賜ふ。寛永十三年、
      新城翁主請て久章の家を立、己が粧田三千七百石をを、久章に譲り、久章の室の粧田千石を
      併せ、四千七百石を領せしむ。垂水の次門とし、鹿屋に居る。久章罪ありて、正保二年十二
      月谷山清泉寺に誅せられ、其封除せらる。久章子あり。又助忠清といふ。父の事に坐して、
      其後たるを得ず。忠清が母は、寛陽公の妹なる故に、寛宥を蒙り、其母の粧田千石を賜ふ。
      承應二年、命あり。宗家島津美作守久憲が義弟となり、更に家を立、忠清没して、寛文二年、
      寛陽公其十男権十郎忠顕をして、忠清が後を嗣しめ、新城を賜ふ。其裔今の領主是なり。領
      主館、新城村にあり。)
      高隅嶽(地頭館より寅方、二里餘。)



















      

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