○本ブログでは、以前2011年8月に、「佛說阿彌陀經」のブログを載せている。その時は義母と叔父を続けて亡くした。その供養の為に、佛說阿彌陀經を書写した。
・書庫「無題」:ブログ『佛說阿彌陀經』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35382175.html
○この1月2月に、叔母と叔父と従兄弟の連れ合いと、続けて三人を亡くした。どんどん自分の世界が萎縮して行く気がして、何とも寂しい限りである。そういう時になると、無性に佛說阿彌陀經を書きたくなる。
○自慢するわけではないけれども、もともと強情な左利きで、字も左である。ただ、習字だけは小さい頃から右で書いている。だから、上手な上手い字が書けるはずもない。
○しかし、書写は極めて重要な文章読解の手段である。大事な文章は書いて覚えるに如くは無い。それにこうやって筆で書写すると、妙に心が落ち着く。
○もっとも、それは書くものの内容に拠るようで、兼好法師は「徒然草」序段に、
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、
そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
と書いている。ただ、兼好法師の場合は書写ではなく、創作であるから、そうなるのかもしれない。
○「佛說阿彌陀經」の字数は1858字である。それに経名まで入れると1864字となる。これを一文字も間違えることなく書写することは、私のような素人には並大抵のことではない。それに、同じような文言が結構多いので、行を間違えたりする。
○一つも間違えない作品を完成させるのに、私は10枚ほど書く羽目になる。間違えたものも、勿体ないから練習のつもりで最後まで書き上げる。結局、二枚の作品を完成させるのに、ちょうど10回「佛說阿彌陀經」を書いたことになる。
○このまま毎日書き続ければ、ほどんど間違えることなく随意に書けるようになる気もするが、そんな気持ちには、なかなかなれない。佛說阿彌陀經に拠れば、
執持名號,若一日、若二日,若三日,若四日,若五日,若六日,若七日,一心不亂,其人臨命終時,
阿彌陀佛,與諸聖眾,現在其前。是人終時,心不顛倒,即得往生阿彌陀佛極樂國土。
とあるのだが。私のような者が、『阿耨多羅三藐三菩提心』を手に入れることは容易なことではない。
○ここ数年、中国普陀山に通い続け、妙荘厳路の入三摩地門を5回、洛迦山の入解脱門も3回くぐっている。それなのに、なかなか三摩地や解脱をしない。やはり、信仰心が不足しているのであろう。
○因みに、「妙法蓮華経」は、六万九千七百七十七字もあるらしい。そのことは天台山の法話で知った。
・書庫「天台山国清寺」:ブログ『隋梅異聞』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36491547.html
○以前、「荘子」を途中何度も中断しながら、4年がかりで書写したことがある。「荘子正文」は約六万五千字と言われる。それより「妙法蓮華経」は長い。何時かは書いてみたいとは思っているが、なかなか実現しそうにない。
・書庫「無題」:ブログ『観文堂:荘子正文』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36172668.html
○お経が極めて身近な存在であった時代から、現代では、多くの人にとって、お経は近しい存在ではなくなりつつある。古代文化研究所を標榜する者としては、お経は避けて通ることの出来ない存在である。古代は宗教の時代そのものであるから。ただ、あまり深入りしたくはない。あまりに奥が深過ぎて、その深奥を覗くことは容易ではない気がするからである。私達は皆、限りある存在であるから。
○私にとっては、「佛說阿彌陀經」1858字でさえ、なかなか手に負えない代物である。読むだけで大変なのだから。ただ、書写していると、故人を懐かしく思い出す。その時間が貴重だと思う。だから、敢えて書写するのかも知れない。