○前回、布袋和尚については触れている。しかし、日本と中国とでは、かなり、布袋和尚の概念が異なる気がする。あらためて、布袋和尚について、述べておきたい。
○日本のウィキペディアフリー百科事典が案内する布袋は、次の通り。
布袋
布袋(ほてい)は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水
墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱とし
て信仰されている。
【出自・由来】
本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつ
けられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓
腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大き
な袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたとい
う。なお、布袋が背負っているこの袋は堪忍袋ともいわれる。
雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかった、あるいは人の吉凶を
言い当てたなどという類の逸話が伝えられる。彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、
云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まった
という。
その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類している。天復年間(9世紀
末)に奉川県で亡くなり埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。
その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録が
ある。
なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である。10世紀後半に記された『宋高僧
伝』巻21「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係につい
て一切触れていない。布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって11世紀初頭、『景徳傳燈
録』巻27に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智、寒山拾得らの異僧・高
僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B
○中国の検索エンジン百度『百度百科』が案内する布袋和尚は、次の通り。
布袋和尚(五代后梁时期僧人)
布袋和尚位列七福神(惠比寿 - 大天 - 毗沙门天 - 寿老人 - 福禄寿 - 弁才天 - 布袋和尚)之一,
不知名氏,来历不详,笑口常开,蹙额大腹,经常佯狂疯颠,常挎着布袋。
【人物简介】
布袋和尚,明州(宁波)奉化人,或谓长汀人,世人不知道他的族氏名字,自称契此,又号长汀子。世
传为弥勒菩萨之应化身,身体胖,眉皱而腹大,出语无定,随处寝卧。常用杖挑一布袋入市,见物就乞,
别人供养的东西统统放进布袋,却从来没有人见他把东西倒出来,那布袋又是空的。假如有人向他请问
佛法,他就把布袋放下。如果还不懂他的意思,继续再问,他就立刻提起布袋,头也不回地离去。人家
还是不理会他的意思,他就捧腹大笑。
http://baike.baidu.com/subview/14669/6533855.htm?fr=aladdin
○別に、中国の『维基百科(自由的百科全书)』には、次のように載せる。
布袋和尚
契此和尚,五代後梁時期之僧人,明州奉化(今浙江宁波奉化)人。因常背負一只布袋开口而笑,又
稱布袋和尚、笑佛。
【生平】
《宋高僧传》最早记载契此生平,说他“形裁腲脮,蹙頞皤腹,言语无恒,寝卧随处。”常常用杖负
布袋进入街市。到市场上乞食,醯酱鱼葅皆入口,又分少许食物放入布袋中。曾于雪中卧而身上无雪,
众人皆奇。
後梁明州評事蔣宗霸常與契此和尚交遊,拜之為師。隨之雲遊三年,一日兩人共浴長汀溪中,宗霸看
見契此和尚背上有四目。
據傳后梁贞明三年(917年)三月,契此和尚圓寂前留一偈語:
“彌勒真彌勒,化身千百億,時時示時人,時人自不識”
因此契此和尚即為彌勒菩薩化身的說法便廣為流傳。他圆寂后不久,有人在别州看见他仍背着布袋到处
走。
【布袋和尚信仰】
在多數正信佛教寺院裡,一進大殿即可見到大肚彌勒(或大肚比丘),即以契此和尚為原型塑造。此
在佛教作為表法教育,表示「量大福大」,提醒世人學習包容。
由於契此和尚的形象通常為臉帶笑容,手提布袋,有和氣生財、累積財富的意味,而受民間信仰者視
為財神供奉,一般商家如彩券行、餐廳等,也會供其形象在店鋪櫃檯。
在日本,日本人以布袋和尚為七福神之一。
在中國,彌勒菩薩示現作布袋和尚的形象,而在印度佛陀時代示現為天子形像(天冠弥勒),头戴天冠
(天子形相),手持祂在天上的道场-兜率內院。彌勒菩薩是竖三世佛中的未来佛,故稱「當來下生彌勒
尊佛」,表示將來成佛之意。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A2%8B%E5%92%8C%E5%B0%9A
●「布袋」だけでは、正確には「ぬのぶくろ」の意でしかない。しかし、日本では十分「布袋」だけで布袋和尚を意味する。随分、中国と日本では「布袋」の意識が違う。
●実際の説明文は、『百度百科』がもっとも詳しいのであるが、長くなるので略してある。詳しくはHP原文を参照されたい。
●中国各地の寺を廻っていると、何処の寺でも、山門を入って最初に目にするのが布袋和尚像である。そのふくよかな尊像は金色に輝き、笑顔に充ち満ちている。日本の寺が仁王門で始まるのと随分違う。
●続けて存在するのが天王殿である。もちろん、そこには、四天王が祀られている。この四天王像は極彩色の巨大な像で、参詣する者を圧倒せずには居ない。
●次に出現するのが本殿である大雄寶殿である。ここにご本尊が鎮座まします。もっとも、大雄寶殿はお釈迦様がご本尊である寺で、観音様がご本尊なら圓通寶殿となる。
●その次には法殿や経堂などが存在する。およそ、現代の中国の諸寺はこのような伽藍構成となっている。
◎日本の諸寺で、布袋和尚を目にすることはほとんど無い。もっとも、布袋和尚は弥勒菩薩の化身とされるから、日本の寺では弥勒菩薩として祀られているのかも知れない。
◎その布袋和尚の故郷が明州奉化(現在の浙江省寧波奉化)であると言う。寧波渓口鎮の雪竇山雪竇資聖禅寺が、弥勒信仰の道場として栄えたのは、偏に布袋和尚の故郷であったからに他ならない。
◎布袋和尚は渾名であって、本名は契此和尚と言い、五代後梁時代(907~923)の僧侶であったと言う。普段いつも大きな布袋を持ち歩いていたので、布袋和尚と呼ばれたらしい。後梁貞明三年(917年)三月に遷化なさったと言う。
◎奉化市には、布袋和尚の菩提寺、岳林寺が存在するらしい。今回、時間が無くて、参拝は適わなかった。再度、出直して来いと言う布袋和尚のお導きであるに違いない。
◎雪竇山参詣を思い立ったのは、王陽明の「雪竇山」詩を読んだからである。そこは桂庵玄樹の『遇舊』詩に見える「四明」の地でもあるから、甚だ気になる土地であった。
◎寧波から寧波渓口鎮までは、およそ38辧雪竇山の存在する寧波渓口鎮から更に南へ直線距離で66劼謀径羯海存在する。つまり、寧波から天台山に到る道筋の途次に雪竇山は存在するわけである。嘗て南宋の時代や明代に、すでに多くの日本人が雪竇山を訪れている。もっと時間を掛けてそういう人々の足跡を辿るのが夢である。