Quantcast
Channel: 古代文化研究所
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1914

六朝古都:南京へ

$
0
0

○2013年6月に、上海から長沙へ飛んで、長沙・汨羅・岳陽・武漢・廬山・九江・九華山・黄山を一週間で周回して来た。その時、長江中流域となる岳陽・武漢・九江・池州を見ることが出来た。長江は黄河とともに中国文明誕生の礎となっている。

○中国の古代文明と言えば、誰もが黄河文明と答えるに違いない。ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典には、黄河文明について、次のように載せる。

      黄河文明
   黄河文明(こうがぶんめい)は黄河の中・下流域で栄えた古代の中国文明のひとつである。黄河の
  氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂
  げていった。東アジアの歴史の教科書には「世界四大文明」のうちのひとつとして挙げられているこ
  とが多いが、現在は長江文明や遼河文明などさまざまな文明が中国各地で発見されているため、四大
  文明に黄河文明のみを取り上げる手法はもはや古くなっている(最近の教科書では、「黄河・長江流
  域の文明」のようにややぼかした表現になっている)。
   新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、殷・周の青銅器文化に
  発展していった。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E

○上記説明にも見られるように、これまで中国文明は黄河文明と一括りにされていたが、現在では、そういう考え方が変化しつつある。中国文明は、単に黄河文明だけではない。黄河文明と並行する形で、長江文明や遼河文明がそれぞれ独自の文明として存在していたことが、すでに確かめられている。

○中国は広い。その中国では、文明も中央部の黄河流域だけではなく、南部の長江流域にも、北部の遼河流域でも文明はそれぞれに発生していた。そういう考え方である。

○ついでに、ウィキペディアフリー百科事典が案内する長江文明と遼河文明も紹介しておく。

      長江文明
   長江文明(ちょうこうぶんめい)とは中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と
  共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲
  に入る[1]。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。
   また稲作などは長江文明から海を渡って日本に伝わった。朝鮮半島へも直接或は日本経由で伝わっ
  たとする説もある[2]。台湾から太平洋全域に拡散していったオーストロネシア語族のルーツを長江
  文明に求める説もある。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E

      遼河文明
   遼河文明(りょうがぶんめい)とは、満州南部、中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の
  一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられている。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E

○私たちは、中国の歴史は一つであって、それが連綿と継続されていると考える。しかし、それは中国の歴史を考える上では、決して唯一無二のものではない。何しろ、中国は大きくて広いのである。それがずっと統一されていたと考える方に無理がある。むしろ、統一されていた時期より、分断されていた時期の方が遙かに長い。中国の歴史を正確に把握するには、そういうふうに考えた方が理解しやすい。

○若い頃には、中国へ出掛けると言えば、西安や洛陽、北京を目指していた。そこが中国文明の起源だと考えていたからである。しかし、中国南部へ出掛けてみると、中国の古代の中心は、ずっと長江流域であったことが判る。強大な力が働いた時のみ、中国は統一され、それが記録として残されている。その中心が西安や洛陽であったに過ぎない。私たちが目にする中国の歴史はそういう時のものである。しかし、そう言う時代にも、南部中国では営々と独自の文化が営まれていたのである。

○そういう南部中国の歴史を考えるには、六朝時代を抜きに考えることは出来ない。ある意味、古くから中国で南部中国を尊重してきた考え方が六朝時代と言う認識の仕方であると言えよう。

○私たちのように、中国の外に居る者の中国の歴史認識と、中国の方の歴史認識とでは、随分感覚のズレがあるように感じられてならない。私たちは中国は一つと考えて考える。それに対し、中国の人はそれぞれの住んでいる地方の歴史を中心に中国を認識している。そのズレは大きい。

○2010年10月から2013年10月までに、寧波・杭州を中心に7回、中国を訪れた。その目的は中国と日本との交流の足跡を辿ることにあった。そういうことを考えている際に、中国の歴史認識を改める必要性に迫られたわけである。

○日本と中国の交流も、決して西安や洛陽、北京を中心に行われたわけでもない。杭州や寧波を歩くと、随所に日本人の足跡を発見出来る。それは西安や洛陽、北京とは雲泥の差がある。

○そう言う意味で、六朝古都であった南京へは、出来るだけ早い機会に訪れる必要性を感じていた。今回、ようやく、その夢を叶えることが出来た。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1914

Trending Articles