○2014年6月20日の午後、南京の鐘山風景名勝区内に存在する南京国際会議大酒店でシャワーを浴び、一休みした後、鐘山風景名勝区探索に繰り出した。
○予定では、21日の朝に鐘山風景名勝区探索するつもりだったが、諸事情で、急遽、予定を変更しての見学となった。昨年10月にも鐘山風景名勝区を訪れ、紫金山・中山陵・明孝陵などは見学済みである。今回の主な見物は、孫権の蒋陵と霊谷寺参拝である。
○ホテルを出て、明孝陵を目指す。ホテルから歩いて10分ほど、距離にして500辰らいに明孝陵が存在する。明孝陵前の集票処で、鐘山風景名勝区門票145元を購入する。この券があれば、鐘山風景名勝区のほとんどのところに出入り出来る。もっとも、私がこの券を使って入場したのは霊谷寺だけだった。
○明孝陵前の集票処近くの茶店で、休憩した。喉が渇いていたので、飲料とアイスバーを買って一休みする。ついでに、孫権の蒋陵が何処かを尋ねた。茶店の叔母ちゃんが明孝陵の真向かいの方角を指差し、「あの道を辿ると蒋陵だ」と教えてくれた。
○それでその道を登って行く。少し行くと道が分岐していた。道に迷うと大変なので、近くを歩いている老人に「蒋陵は何処か」と聞くと、両方の道とも蒋陵へ続いていると教えてくれた。それで左側の道を進む。暫く行くと、真新しい建物が広い芝生の中に建っていた。それが東呉大帝孫権記念館であった。
○明孝陵の真向かいの小高い丘が梅花山で、孫権陵は、その梅花山の何処かに存在するらしい。ただ、孫権の蒋陵は地中に在って、地上には何も存在しない陵となっている。だから、何処が本当の孫権陵であるかは、皆目不明だと言う。
○現在、東呉大帝孫権記念館を中心に、公園化されて、散策するにも良いところとなっている。また、中国では、最近、こういう記念館や博物館は、国の政策として無料となっているところが多い。
○近代的な西洋式公園の只中に、近代的な東呉大帝孫権記念館が建っていて、呉の孫権の御陵としては、聊か、戸惑わされた。しかし、本当の孫権の蒋陵は、地中深く、今でも眠っている。
●前回、昨年10月に南京を訪れる際、孫権の蒋陵については、あれこれ調べた。時間が無くて訪問できなかったが。詳しくは、そちらを参照されたい。
・書庫「六朝古都:南京」:ブログ『南京:孫権の蒋陵』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38666655.html
●三世紀に生きた孫権と、倭国の女王卑弥呼との間に、度重なる通交があったことは、「魏志倭人伝」を読めば、容易に想像される。おそらく、卑弥呼はだいぶん孫権より年長者であった。亡くなった時期は、ほぼ同じであるけれども。
●景初二年(238年)六月に、卑弥呼は初めて魏国へ使いを出したと「魏志倭人伝」は記す。しかし、「魏志倭人伝」を読めば判ることだが、それ以前に、倭国は相当中国化している。それは卑弥呼が呉国との通交に拠って獲得したものに他ならない。
●景初二年は、まさに倭国の歴史のターニングポイントではなかったか。それまでの呉国から魏国へと通交の国を乗り換えようとしたのが卑弥呼である。それほどの国際性を卑弥呼は身に付けていた。陳寿が驚くのも、卑弥呼のそういう先見性にある。
●その孫権が眠っているのが南京鐘山風景名勝区内の梅花山、孫権の蒋陵である。感慨深いものをここに感じるのは、私だけではあるまい。