○楊万里が「曉出淨慈寺送林子方」詩で、
畢竟西湖六月中 畢竟、西湖は六月中なり。
と断じているのと同じように、揚州瘦西湖でも、六月の瘦西湖を観ない限り、瘦西湖を観たとは言えないのかも知れない。それ程、江南地方の蓮華は美しい。
○今回の旅行では、南岳衡山から、岳陽、武漢、廬山、南昌、南京を経て、揚州まで来たが、何処でも蓮の花は見ることが出来た。それ程、中国の人々は蓮の花を愛している。また、それは、中国の人々のすぐ身近に蓮の花が存在することをも意味する。日本では、蓮の花が中国ほど身近に存在するわけではない。
○何しろ、中国は南船北馬の国である。以前、上海から西安へ飛行機で飛んだ際、眼下に大平原が見渡せた。その中を白く蛇行して川が流れているのを見た。道路は真っ直ぐ大平原を直線で走っているけれども、川は自由に大平原を流れている。
○よくよく観察すると、集落は道路に沿って作られているのではない。中国では、集落は川の湾曲したところに作られている。もともと、あのような真っ直ぐの道は存在しなかった。もともと、人々は舟で行き来していたことが判る。
○そういう生活の中で、蓮の花が最も身近な存在であることは当たり前のことである。周敦頤に「愛蓮説」がある。
愛蓮説
周敦頤
水陸草木之花、可愛者甚蕃。 水陸草木の花、愛すべき者甚だ蕃し。
晋陶淵明独愛菊。 晋の陶淵明、独り菊を愛す。
自李唐来、世人甚愛牡丹。 李唐自り来のかた、世人甚だ牡丹を愛す。
予独愛蓮之出淤泥而不染、 予独り、蓮の淤泥より出でて染まらず、
濯清漣而不妖、 清漣に濯はれて妖ならず、
中通外直、不蔓不枝、 中通じ外直く、蔓あらず枝あらず、
香遠益清、亭亭浄植、 香遠くして益々清く、亭亭として浄く植ち、
可遠観而不可褻玩焉。 遠観すべくして褻翫すべからざるを愛す。
予謂菊、花之隠逸者也。 予謂へらく、菊は花の隠逸なる者なり。
牡丹、花之富貴者也。 牡丹は花の富貴なる者なり。
蓮、花之君子者也。 蓮は花の君子なる者なりと。
噫! 菊之愛、陶後鮮有聞。 噫、菊を之れ愛するは、陶の後聞く有ること鮮し。
蓮之愛、同予者何人? 蓮を之れ愛するは、 予に同じき者何人ぞ。
牡丹之愛、宜乎衆矣! 牡丹を之れ愛するは、宜なるかな衆きこと。
○周敦頤は蓮の花を君子だと賞する。それなら、中国では何処にでも普通に、聖人君子が存在することになる。それほど中国では、蓮の花は身近な存在である。
○今回、揚州を訪れたのは2014年6月21日であった。旧暦の5月24日だから、間もなく旧暦六月の時期であった。翌日訪れた鎮江の金山寺の蓮花は、表現出来ないくらい見事であった。
○残念ながら、瘦西湖の蓮花は、ちらほら見る程度であった。しかし、个園北側正面入り口に沢山の鉢植えの蓮があって、ここの蓮花は満開で、実に見事であった。蓮花を愛すると言うのは、こういうのを見ない限り、なかなか理解されない。周敦頤は『遠観すべくして褻翫すべからざる』ものが蓮花だと言うけれども、誰もが愛玩したくなる。
○後日、鎮江の金山寺の見事な蓮花は案内したい。取り敢えず、个園北側正面入り口にあった蓮花をご覧あれ。