○崔致遠の詩を案内しているところだが、前回、崔致遠の『蜀葵花』詩を紹介した際、いろいろ調べていたところ、崔致遠の『蜀葵花』詩に先行する作品に、岑参の『蜀葵花歌』があることを知った。読んでみると、なかなかの佳歌である。案内しないのも実に勿体ない話なので、附則として、ここに載せておきたい。
【原文】
蜀葵花歌
岑参
昨日一花開
今日一花開
今日花正好
昨日花已老
始知人老不如花
可惜落花君莫掃
人生不得長少年
莫惜床頭沽酒銭
請君有銭向酒家
君不見、蜀葵花
【書き下し文】
蜀葵花歌
岑参
昨日、一つの花の開き、
今日、一つの花の開く。
今日の花は正に好く、
昨日の花は已に老ゆ。
始めて知る、人の老いは花に如かざると。
落花を惜しむべく、君、掃くこと莫かれ。
人生は少年の長きを得ず、
床頭の酒銭の沽るるを惜しむこと莫かれ。
君に請ふ、銭の有らば酒家へ向くを、
君見ずや、蜀葵花。
【我が儘勝手な私訳】
タチアオイの花の歌
タチアオイの花が一つ、昨日咲いていたが、
今日、またタチアオイの花がもう一つ咲いた。
今日咲いた花は美しいけれども、
昨日咲いた花はもう既に萎れかかっている。
タチアオイの花を見ていると、人はこのように順々に老いて行くのを知る。
落ちた花が愛おしいので、箒で掃かないでそのままにしていて欲しい。
人は何時までも青春の若者であることは出来ないのだから、
今ある折角のお金や酒を惜しんで使わない手は無い。
君にお願いする、どうか酒屋へ赴いて酒を買ってきて欲しい、
目の前の今日のタチアオイの花のように、私は今を謳歌したいのだ。
○読んでいただければ判るように、非常に分かり易い歌である。それでいて、非常に含蓄のある歌でもある。教訓じみた歌なのに、押しつけがましく無く、さほど、気にならず、ある種の爽快感さえ漂う。そこが詩人の技量なのであろう。
○我が家の裏手の隣家に、大きな山茶花の木があって、毎年11月末あたりから2月過ぎまで、これでもかというくらい、沢山の紅い花を咲かせ続ける。我が家の窓の外が紅く染まるくらいに。隣家からは庭の隅に存在する木だから、我が家ほど、この木の美しい花を楽しむことは出来ないと思われる。まるで我が家の為に存在する木である。今年も存分に楽しませていただいている。
○タチアオイの花も、長いこと楽しめる。花は下から順に咲いて行く。全部の花が一緒に咲くわけではない。それを岑参や崔致遠のように楽しむ人は珍しいのでは。詩人には、一種独特の感性が備わっているのだろう。
○比叡山の伝教大師最澄に「照一隅」の言葉がある。そういうものを岑参や崔致遠は蜀葵花に見出している。一点光の生命の輝きがそこにある。存在するものは皆美しい。そして哀しい。
○実存主義が説く深奥が岑参の『蜀葵花歌』や崔致遠の『蜀葵花』詩に垣間見えると言うと、哲学者先生に怒られるだろうか。私には岑参や崔致遠の方が近代哲学者より遙かに内面が豊かで奥深い気がしてならない。それに難しく無いし、何より、楽しく、愉快である。
○蛇足:「荘子」外物篇第二十六に、『轍鮒之急』がある。今を知る上で参考になる。道士は火急の際にも、これくらいの余裕が要求される。
荘周家貧。故往貸粟於監河侯。監河侯曰、「諾。我将得邑金。将貸子三百金。可乎。」荘周忿然作
色曰、「周昨来、有中道而呼者。周顧視車轍中有鮒魚焉。周問之曰、『鮒魚来、子何為者邪。』対曰、
『我東海之波臣也。君豈有斗升之水而活我哉。』周曰、『諾。我且南遊呉越之王。激西江之水而迎子。
可乎。』鮒魚忿然作色曰、『吾失我常与、我無所処。吾得斗升之水、則活耳。君乃言此。曾不如早索
我於枯魚之肆。』」