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吐火羅國と舎衞國

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○前々回に、ブログ『薩摩国と日向国』を書いて、白尾國柱と「麑藩名勝考」について、詳しく案内した。 白尾國柱著「麑藩名勝考」に学ぶことは多い。それ程、白尾国柱の「麑藩名勝考」は名著だと言うことなのだろう。

○ここで紹介する吐火羅國と舎衞國の問題も、実は白尾國柱著「麑藩名勝考」に教わったことである。九州島の南に南西諸島が存在し、その南半分は琉球諸島と呼ばれ、行政区は沖縄県となっている。北半分は薩南諸島と呼ばれ、鹿児島県に属す。その薩南諸島は更に北から大隅諸島・吐噶喇列島・奄美群島に細分される。

○吐噶喇列島は、行政区では鹿児島県鹿児島郡十島村となる。その十島村は南北130劼痢⇒人島七島(口之島・中之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・小宝島・宝島)と無人島五島(臥蛇島・小臥蛇島・小島・横当島・上ノ根島)からなる。

○これまで吐噶喇列島には、3回訪れている。
  。横娃娃糠7月3日・書庫「吐火羅の旅」:19個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1185562.html?m=l&p=1
  ■横娃隠嫁5月21日・書庫「吐噶喇往還」:30個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1205424.html?m=l&p=1
  2012年12月10日・書庫「小宝島訪問」:16個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1221591.html?m=l&p=1

○白尾國柱著「麑藩名勝考」を読むと判ることだが、おおよそ、江戸時代まで、日本の最南端は吐噶喇列島である。奄美群島以南は琉球王国となっている。したがって、白尾國柱が「麑藩名勝考」で案内する薩摩藩の内情も吐噶喇列島までである。

○白尾國柱は「麑藩名勝考」巻之三、『河邊郡七島』に、次のような記録を残している。
     【寶島】
  ・(日本)書紀作吐火羅。亦作都貨邏・都貨羅。
  ・琉球録作土噧喇。并に七島の統名。後僅かに寶島の一島に其の名を存す。
  ・諸国記作渡加羅は一島の名なり。
    【中略】
  々徳紀曰白雉五年夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舎衞女一人、被風流來于日向。
  ∪凸正三年秋七月丁亥朔己丑、覩貨邏國男二人女四人、漂泊于筑紫。言、臣等初漂泊于海
    見嶋。乃以驛召。辛丑暮、饗覩貨邏人。
  斉明紀五年三月丁亥、吐火羅人、共妻舎衞婦人來。
  だ凸正六年、覩貨邏人乾豆波斯達阿請曰、願得贈送暫還本國。當留妻以為質。許之。即與数十人入
   西海路。
  ヅ敬雉三年、吐火羅及び舎衞女献薬種珎貨。
  ο揃越掏、とからしま、薩摩の洋中にある島なり。日本紀に吐火羅に作る。中山傳信録に土噧喇に
   作る。(以下略)
  注揖琉球使禄云、七島云々、人不満萬。唯寶島較大。國人統呼之曰土噧喇。或曰、即倭也。
   然國人甚諱之。殊不知有日本者。
  琉球國誌略云、一説七島本國属尚寧王被襲割地與之、王乃帰。即七島也云々。

○つまり、「日本書紀」の孝徳紀・斉明紀・天武紀に、『吐火羅國・舎衞國』の記述が見られると言うのである。実際、「日本書紀」で調べると、そのことは確認される。

○白尾國柱は「麑藩名勝考」の中で、吐火羅國は吐噶喇列島平島だとし、舎衞國は臥蛇島ではないかと論じている。何とも驚く推論である。

○私が読む「日本書紀」は、岩波古典文学大系本であるが、その補注では、日本書紀が記録する吐火羅國や舎衞國を、西域の国であるとか、タイ国のドヴァラヴァティであるとか、舎衞はインドの国であるとか、途方もない話を載せている。余程、江戸時代の白尾國柱の意見の方が的を射ていると言うしかない。

○ただ、白尾國柱の説がそのまま通用するわけでもない。白尾國柱の情報は実際現地を訪れて採集されたものでは無いように思われる。江戸時代、吐噶喇列島へ赴くことは容易なことでは無かったに違いない。現代では、行こうと思えば、何時でも簡単に出掛けることが出来る。

○実際、吐噶喇列島の平島や臥蛇島を訪れてみると判ることだが、吐噶喇列島の平島や臥蛇島が吐火羅國や舎衞國を名乗ることには、相当無理がある。平島は小さし島だし、臥蛇島に到っては、現在無人島と化しているほど、急峻で更に小島である。幾ら古代であっても、その環境がそれ程変わるわけでもない。

○おそらく、「日本書紀」が記す吐火羅國は、吐噶喇列島全体であって、舎衞國は硫黄島だとするしかない。また、白尾國柱は「吐火羅國と舎衞國」とするけれども、正確には、「吐火羅國と舎衞」であって、吐火羅國は国名だが、舎衞は町の名である。

○「吐火羅國と舎衞」が仏教に関連する地名であることは言うまでも無い。それ程の信仰が古代の吐噶喇列島に存在したことの意味は大きい。また、そういうことに江戸時代に気付いて、こういう記録を残している白尾國柱の眼力に恐れ入る。

○白尾國柱は国学者である。それは時代の趨勢に拠るものであって、決して白尾國柱個人の責任や白尾國柱本人に起因するものであるわけではない。そういう時代の壁が大いに制約を加えていることを忘れてはなるまい。

○第一、「日本書紀」にこういう記録が存在すること自体、多くの方は見逃している。岩波古典文学大系本「日本書紀」を読むと、現代人以上に、白尾國柱には先進性があると私には思える。

○白尾國柱が言うように、「日本書紀」が記す『吐火羅國と舎衞國』は吐噶喇列島だと言うしかない。ただ、正確には上記したように、吐火羅國は、吐噶喇列島全体であって、舎衞國は硫黄島だと言えよう。そのことは、吐噶喇列島や硫黄島の歴史を辿ると明らかになる。

○白尾國柱が吐噶喇列島を実見出来ていたら、そういう誤解は生じなかったに違いない。それを白尾國柱の時代に求めること自体に無理がある。

○現代の私たちは、自由に、簡単に吐噶喇列島へ出掛けることが出来るし、更に中国本土、会稽や寧波まで訪問することが出来る。そういう時代に机上の空論ばかり唱えたところで何になるだろう。三世紀に、吐噶喇列島には中国と日本とを交流する道が存在したことは間違いない。その道の記録が「日本書紀」が記す『吐火羅國と舎衞國』なのである。ついでに、その道も案内しておきたい。
  ・会稽→寧波(100辧
  ・寧波→舟山群島(150辧
  ・舟山群島→吐噶喇列島宝島(600辧
  ・吐噶喇列島宝島→吐噶喇列島悪石島(50辧
  ・吐噶喇列島悪石島(50辧泡吐噶喇列島諏訪之瀬島(24辧
  ・吐噶喇列島諏訪之瀬島→吐噶喇列島中之島(28辧
  ・吐噶喇列島中之島→吐噶喇列島口之島(14辧
  ・吐噶喇列島口之島→口永良部島(59辧
  ・口永良部島→硫黄島(36辧
  ・硫黄島→坊津(56辧

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