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とぶとりのあすか

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○明日香村は奈良県高市郡明日香村である。ウィキペディアフリー百科事典には次のように案内する。

      明日香村
   明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部に位置する村。中央集権律令国家の誕生の地である事
  から飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されている事で知られ、「日本の心の故郷」とも紹介される。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%97%A5%E9%A6%99%E6%9D%91

○明日香村は人口5500人ほどの小さな村である。しかし、推古天皇から持統天皇までの飛鳥時代(593~694)のおよそ100年間、ここは日本の都であった。

○ウィキペディアフリー百科事典には、別に、飛鳥項目も載せる。

      飛鳥
   飛鳥(あすか)は現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥あたりと大阪府羽曳野市及び太子町あたり
  を指す地域名。2つの飛鳥を区別するために、河内国(大阪府)の飛鳥は「近つ飛鳥」「河内飛鳥」
  とよばれ、大和国(奈良県)の飛鳥は「遠つ飛鳥」・「大和飛鳥」とよばれる。この場合の「近つ」、
  「遠つ」は都があった難波宮(大阪市中央区)からみてちかいかとおいかによる(なお、遠つ飛鳥と
  近つ飛鳥を逆に解する説もある)。
   現在では単に「飛鳥」といった場合には、大阪府の飛鳥(河内飛鳥)ではなく奈良県の飛鳥(大和
  飛鳥)を指すのが一般的である。したがって、ここでは奈良県の大和飛鳥について記述し、大阪の飛
  鳥は「河内飛鳥」の項目に記す。
  【概要】
   古い時代においてのみ公的であった名称ではなく、近年においても1956年の合併によって明日香村
  がうまれるまではこの地域に飛鳥村があり地方自治体の名称として飛鳥は存在した。また、現在にお
  いても明日香村の大字(おおあざ)として飛鳥という地名は存在している。
  【名称について】
   「あすか」の語源については外来語由来説、地形名称由来説などがあるがはっきりとしたことはわ
  かっていない。
   外来語由来では、アソカ(ムユウジュ、阿輸迦の木)、アショーカなどのサンスクリッド語とする説、
  古代朝鮮語の”スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いたとする説、安宿(アンシュク)の渡来人に
  よる転訛とする説、などがある。
   地形由来としては、川の中洲や砂州を意味する”ス”のある”カ”(=場所、処)に接頭語アが付
  いたとする説、これらの土地の様子を”アサ(浅)”、”アサ(荒)”の”カ”と呼んだとする説が
  ある。
   また、スズメの一種で渡来する冬鳥であるイスカ(交喙、鶍)に由来するという説もある。
   一方、飛鳥の和訓に当てている理由として、『万葉集』に見える枕詞に由来するとする説がある。
     ・飛鳥の 明日香の里を置きて去なば君が辺は見えずかもあらむ(1-78)
     ・飛鳥の 明日香の河の上ッ瀬に生ふる玉藻は下ッ瀬に流れ触らふ玉藻なす(略)(2-194)
     ・飛鳥の 明日香の川の上ッ瀬に石橋渡し下ッ瀬に打橋渡す石橋に生ひ靡ける(略)(2-194)
   しかし、時代が下った天武朝に、吉兆を意味する朱鳥を元号とし(686年~)、造営した浄御原宮
  に「飛鳥」と冠したのが初めとする説などもある。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5

○枕詞「とぶとりのあすか」は言い得て妙、なかなか洒落た表現である。誰もが枕詞「とぶとりのあすか」は知っているけれども、その内実がどういうものであるかを知ろうとはしない。

○学生時代からこれまで、幾度と無く明日香は訪れている。昔は国鉄桜井線の香久山駅か畝傍駅から歩くか、近鉄吉野線飛鳥駅から歩いて行くしかなかった。今はバスの便も多いし、レンタルサイクルが飛鳥駅前にあって、非常に助かる。

○本来、飛鳥の文字を「あすか」と読むことは出来ない。枕詞「とぶとりのあすか」の存在があって初めて飛鳥は「あすか」と読むことが出来る。

○上記したウィキペディアフリー百科事典の飛鳥項目を読むと面白い。飛鳥地名由来は、皆目不明であって、様々な説が飛び交う。しかし、もともと日本の都が存在した地の名が飛鳥なのである。それに、飛鳥地名は決して奈良県固有のものでもない。本当は、そういうことを考慮した上で、飛鳥地名は語られるべきものなのではないか。

○大和地名が大和国で説明出来ないのと同様に、飛鳥地名も本来、何処か他所の地名を勧請したものではないかと私には思えてならない。そういう意味では、上記ウィキペディアフリー百科事典の飛鳥項目が載せる「アショーカなどのサンスクリッド語」説は気になる。

○アショーカ王については、ウィキペディアフリー百科事典は次のように案内する。

      アショーカ王
   アショーカ(サンスクリット:अशोकः、IAST:Aśokaḥ、訳:無憂=むう、在位:紀元前268年頃 -
  紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。漢訳音写では阿育王と書かれる。インド亜大陸
  をほぼ統一した。釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、
  古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。アショカとも表記される。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB

○私たちはアショーカ王について、ほとんど何も知らないけれども、古代に於いては、アショーカ王の名は絶大であった。それは日本の仏教を席捲しているのが仏舎利塔信仰であることからも明らかである。時代が下るに伴って、仏教は極めて観念的になるけれども、古代の仏教はそれ程観念的であったわけではない。

○説教と言う言葉は、現代ではあまり良い意味に使われることも少なくなっているけれども、本来、「教えを説く」のが説教なのである。本来、仏教寺院はそう言う場所であった。何も仏教寺院は葬式の場所でもないし、法事を執り行う場所でも無い。まして、観光地などでは無かったはずである。

○もともと、親族にお坊さんが必ず居るのが当たり前の時代が古代なのである。だから、仏教は極めて身近な存在であり得た。仏教寺院は親族の住まう場所であった。伯父さんや叔母さんの住むところが本来の仏教寺院なのである。

○ある意味、当時の文化は仏教寺院からもたらされた。それが文字であり、絵画でであり、音楽であり、物語であり、荘厳な建築物であった。ある意味、仏教寺院は憧れの世界であった。

○おそらく「とぶとりのあすか」には、そういう人々の思いが込められている。人々にとって、「あすか」は憧れの理想郷なのである。

○そういうことを、陶淵明は「飮酒二十首:其五」詩で、次のように詠っている。
  采菊東籬下    菊を采る東籬の下、
  悠然見南山    悠然として南山を見る。
  山氣日夕佳    山氣日夕に佳く、
  飛鳥相與還    飛鳥相ひ與に還る。
陶淵明の10劼曚匹量椶寮茲砲廬山が聳え立っている。秋の夕暮れ、夕日の中、飛鳥は群れてその廬山へと帰って行く。思わず、陶淵明は、
  此中有眞意    此の中に眞意有り。
  欲辨已忘言     辨ぜんと欲して已に言を忘る。
と、只、詠じ、嘆じるしかない。

○たまたま、「飮酒二十首:其五」詩中にも『飛鳥』が出現するが、枕詞「とぶとりのあすか」がそういう信仰に基づく概念であることは間違いない。

○飛鳥の地は、石舞台のある島庄や、橘、岡と違って、結構開けた場所である。ここで見上げるのは東山の多武峯妙楽寺であることは言うまでもない。妙楽寺の創建は天武天皇7年(678年)とされるが、その起源はもっと古いのかも知れない。

○その多武峯妙楽寺は、現在、談山神社と名を変えている。藤原不比等の兄、定慧が創建した寺として知られる。談山神社で最も知られるのが十三重塔と言う、仏塔である。

○枕詞「とぶとりのあすか」は、おそらく、そういう名義なのではないか。飛鳥から見仰ぐのは阿育王塔である十三重塔なのである。

○最近、そういうことを思うようになった。2010年に飛鳥を訪れて以来、ここのところ、随分、飛鳥にはご無沙汰である。出来れば、また飛鳥を訪れ、そういうことを実感してみたい。

●ここは邪馬台国三山を話する場である。肝心なことを忘れて居た。枕詞「とぶとりのあすか」の原風景は、別に存在する。それが枕崎辺りから望む硫黄島である。枕崎からはきれいに硫黄島が望見される。

●硫黄島と飛鳥とは無関係では無いかと思われるかも知れない。しかし、硫黄島は日本の仏舎利塔崇拝信仰の原点なのである。詳しくは、以下を参照されたい。
  ・書庫「邪馬台国三山」:ブログ『舎衞國が硫黄島であること』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39436374.html

●また、定慧が指宿に居た伝承も、鹿児島には残されている。このことについては、まだ十分検証していないので、そういう話があることを記すに留める。

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