○これまで、「邪馬台国と薩摩国」、「天皇家の故郷狗奴国」と話してきているのだから、今回は当然、投馬国の話になる。投馬国・邪馬台国・狗奴国が南九州三国だからである。念の為、再度魏国が認識する倭国三十国を掲げておく。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
○判るように、魏国が認識する倭国三十国とは、現在の九州島を指す。「三国志」の表現を借りるなら、
・參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
と言うことになる。魏国が認識する倭国三十国の大きさが『周旋可五千餘里』と言う定義が意味するところは大きい。何故かこれまでこういう判断がなかなか為されていないのに驚く。
○魏国が認識する倭国三十国の大きさは『周旋可五千餘里』というのだから、その起点となる末廬国から邪馬台国へ到るには、右回りと左回りの二つのルートが存在する。「三国志」の記述の仕方であれば、右回りが三千余里であって、左回りが二千余里だと判る。
○こういう「三国志」の記述の仕方は、何とも面倒で回りくどい。多くの読者を混乱させたのも、この独特の記述法に拠ると言うしかない。しかし、読み解いて判ることだが、この記述法は極めて有意義な手法であって、一見して魏国が認識する倭国三十国がどういうものかが了解される。そういう意味では、「三国志」の編者、陳寿の力作がこの手法であったと理解する。
○上記した魏国が認識する倭国三十国をご覧いただければ判ることだが、この手法は決して思い付きでは出来ない。『周旋可五千餘里』と言う表現を含めて、用意周到に準備されたものであることが判る。陳寿が何とも奇想天外、凄まじい表現を駆使していることに驚く。読者は改めて、史家、陳寿の実力の程を思い知らされる。
○陳寿が尋常の史家で無いことは判っているのだから、そのつもりで付き合うしかないわけである。陳寿の表現する一言一言に耳を傾けない限り、「三国志」は読めない。まして、我流に「三国志」を読んだところで、陳寿に翻弄されるに決まっている。そういう意味で、宮崎市定の次の言葉は参考になる。
このように『史記』においては何よりも、本文の意味の解明を先立てなければならないが、これは
古典の場合已むを得ない。古典の解釈は多かれ少なかれ謎解きであって、正に著者との知恵比べであ
る。そしてこの謎解きに失敗すれば、すっかり著者に馬鹿にされて了って、本文はまっとうな意味を
伝えてくれないのである。 (「宮崎市定全集5 史記」自跋)
○こういう読書は、経験した者にしか実感出来ない。中国の史書はそういうふうに読むものなのである。現代人の我流の読書が通用する世界では無い。
●話を元に戻して、投馬国の話をしたい。「三国志」が投馬国を登場させるには、二つの意味がある。一つは投馬国が邪馬台国へ到る途次にある国であることと、もう一つは投馬国が南九州三国の一国であることの二つである。
●つまり、『周旋可五千餘里』の九州島を右回りだと案内するのに投馬国は登場するわけである。末廬国から邪馬台国までの最短距離は『二千余里』で、これは左回りルートになる。しかし、「三国志」が案内するのは右回りルートとなっている。その右回りルートの途次の大国が投馬国なのである。投馬国さえ案内すれば、誰もがそれが右回りルートだと判るようになっている。
●投馬国について、「三国志」の記すところは、
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
と僅か25字に過ぎない。これから投馬国のイメージを描くことは容易なことではない。
●しかし、九州島で不彌國から右回りに水行二十日で投馬国に達すると言うのであれば、それは北九州ではない。もともと『周旋可五千餘里』の九州島を巡る旅程であるから、極めて限定された場所となる。そう考えると、投馬国は「妻」だとするしかない。現在の行政区で言うなら、宮崎県西都市妻になる。
●「三国志」が描く南九州三国の邪馬台国・狗奴国・投馬国は、後世、薩摩国・大隅国・日向国になる。宮崎県西都市妻は、日向国の国府が存在したところとなる。一般には「西都原古墳群」で知られる。
西都原古墳群
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)とは、宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の市街地西方を
南北に走る、標高70メートル程度の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大級の古墳群である。
【概要】
現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横
穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。
大正元年(1912年)から大正6年にかけて日本で初めて本格的学術調査が行われた地としても有名
である。調査は大正元年12月25日から翌年1月6日に第一次調査、同2年5月に第二次調査、同3年8月に
第三次調査、同4年1月に第四次調査、同5年1月に第五次調査、同5年12月から翌年1月に第六次調査が
実施された。
大正3年(1914年)、出土品を収蔵するため宮崎県立史跡研究所が設立された。後に市に移管され、
昭和27年(1952年)博物館法指定で西都市立博物館となる。現在は宮崎県立西都原考古博物館。
その後、昭和9年(1934年)に国の史跡に、昭和27年(1952年)に国の特別史跡に指定され、昭和4
1年(1966年)から昭和43年にかけて、風土記の丘第1号として整備が進められた。
西都原古墳群は地形的に西都原台地上と、西都原台地と市街地との間に位置する中間台地上の二地
域に区分でき、その中で更に11の集団に分けることができる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%BD%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4
●「三国志」が南九州三国として、邪馬台国・狗奴国・投馬国の三国を挙げていることの意義は大きい。邪馬台国や狗奴国と違って、投馬国は新興国である。それは、三世紀にすでにこの地に投馬国が存在したことを意味する。それも『可五萬餘戸』と言う大国である。
●薩摩国・大隅国・日向国を考える上で、国府の所在地は甚だ気になる。薩摩国の国府は薩摩川内市で、大隅国の国府は霧島市となっている。薩摩国で薩摩川内市は極めて辺境の地だったと思われるし、それは大隅国の霧島市も同様である。それに対して日向国では国の中心部に国府が存在したことになる。
●逆に言うと、大和朝廷の中に日向国はしっかり組み込まれていたことが判る。南九州三国の中で唯一の存在である。それに対して、薩摩国や大隅国は、最後まで大和朝廷に抵抗している。
●西都原古墳群の存在は、そういう歴史の流れを感じさせる。だから、日向国名を受け継ぐことが出来たのかも知れない。ただ、此処はもともとの日向国の中心では無い。もともとの日向国の中心はあくまで薩摩半島になる。
●「日本書紀」景行天皇紀にあるように、投馬国の名義は『あづま』にある。邪馬台国の東の国の意が投馬国の名義ではないか。そういう意味では西を意味する日向の字義には合わない。
●また、日向国では、西都原古墳群ばかりが特記されることが多いけれども、西都原古墳群周辺には、新田原古墳群や、持田古墳群、川南古墳群、茶臼原古墳群など、数多くの古墳群が存在することも忘れてはなるまい。西都原古墳群はあくまでそういう古墳群の一つに過ぎない。