○前回「『三国志』の投馬国」と題して、「三国志」が記録する投馬国について触れた。本ブログには字数制限があるので、話の途中で打ち切らざるを得なかった。今回はその続きである。
○「三国志」には、投馬国について、次のように案内する。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
この前に不彌國の話があって、それは、
東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
となっている。この不彌國案内にしたところで、僅か22字である。不彌國の比定地は現在の福岡県宇美町辺りとする説が有力視される。
○室見川や那珂川、三笠川が広大な福岡平野を形成しているが、そこが戸数二万戸の大国、奴国とされ、宇美町はその東に隣接する町である。奴国から「百里」という里数にも合致する。あくまで、北九州の大国は奴国である。
○ただ、不彌國自体はもう少し大きい範囲で考えて良いのではないか。つまり、河口は多々良川で合流している、宇美川や須恵川、多々良川流域全体を不彌國と捉えたい。多々良川河口近くには香椎宮が存在する。
○また、日本三大八幡宮と称される筥崎宮の鎮座地は明らかに宇美川の河口に位置する。本来の宇美川の河口は多々良川に合流していたのでは無く、筥崎宮の鎮座地あたりで博多湾に注いでいたものと思われる。
○そういう意味では、筑前国一宮が住吉神社と筥崎宮であることの意義は大きい。奴国の人々の斎き祀る神が住吉神であり、不彌国の人々の斎き祀る神が八幡神であると考えることが出来る。古代で宗教を抜きに物事を考えることは出来ない。
○もちろん、一宮の成立はそれほど古いものでは無いから、その辺りは十分考慮する必要がある。一宮には古いものと新しいものとが混在している。
●そういう不彌国から「水行二十日」の国が投馬國である。方角は「南」とある。しかし、宇美町から南の方角は海では無く、陸地となっている。水行するには東か西へ進むしかない。また、ここまで西から東へ来ているのだから、西へ帰ることは考えにくい。したがって東へ進むしかない。
●「三国志」が、『南至投馬國、水行二十日』と言うのは、目的地が南であって、行く方角を指すのでは無いことが判る。最終的に投馬國は不彌国の南に位置することが判る。その道程も『水行二十日』だから、そういう表現をしたものと思われる。
●『水行二十日』がどれ程の距離数であるかは、現代ではなかなか判断し難い。しかし、幾ら何でも50劼箸100劼任鰐気い世蹐Αその間に何も無いはずは無い。しかし、「三国志」は何故か、その間のことについて、一切言及しない。何とも不親切な表現だと言うしかない。
●それでも「三国志」の編者、陳寿は十分だとする。もちろん、それにはちゃんとした理由がある。絶対に間違えようの無い道程なのである。その理由は『水行』にある。
●陳寿は「三国志」で、倭国の大きさを、
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
と規定している。つまり、『周旋可五千餘里』の大きさが倭国の大きさだと言うことが判る。『周旋』は「同じところを何度もクルクル回ること」を意味する。そうであれば『可五千餘里』は、島の大きさであることが判る。
●ここで注意すべきは、『倭国』の規定の仕方である。「三国志」が記録しているのは、決して倭国全体ではない。倭国は広い国であって、「三国志」が認識するのは、その倭国の一部であることを「三国志」ではしっかり、
倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
と規定している。つまり、「三国志」が記録する倭国は倭国全体ではなく、魏国が認識する倭国三十国だと限定する。それが『可五千餘里』だと言うことになる。
●『可五千餘里』の表現は、言い得て妙、なかなか凝った表現である。「三国志」では韓国の大きさを『方可四千里』と表現している。現在で言えば、おおよそ、大韓民国の大きさに該当する。『方可四千里』は周囲一万六千里である。『可五千餘里』なら、それのおおよそ三分の一ほどの大きさになる。
●『可五千餘里』の島と言えば、誰もがそれは九州島だと考えるしかない。それが魏国が認識する倭国の範囲なのである。本州や四国は含まない。「三国志」には明確にそういうふうに記録されている。
◎結果、「三国志」が投馬国を案内するのに、『南至投馬國、水行二十日。』と表現していることが判る。沿岸沿いに進むのだから、水行十日でも二十日でも、気にすることは無い。決して進行方向を間違えることはあり得ない。だから『周旋』と表現しているのである。
◎逆に言うと、『南至投馬國、水行二十日。』は、簡単に距離数に変換することも出来る。おそらくそれは『水行千五百余里』であろう。
◎計算法は次の通り。
ゞ綵E臍澗里五千余里。
∨国から邪馬台国までは二千余里。(西回りルート)
したがって、東回りルートは計三千余里。
・末廬国から伊都国まで五百里。
・伊都国から奴国まで百里。
・奴国から不彌国まで百里。
に国から不弥国までで、七百里。東回りルート残りは二千三百余里。
ド墸醜颪ら投馬国までが水行二十日。投馬国から邪馬台国までが水行十日と陸行一日で換算すると、
・不彌国から投馬国までが千五百余里。
・投馬国から邪馬台国までが八百余里。
◎「三国志」には、
南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。
と記録されているけれども、全体が『周旋可五千餘里』しか無いのに、『陸行一月』はあり得ない。おそらく『陸行一月』は『陸行一日』の誤記か誤写だとするしかない。それに日本で『陸行一月』はあり得ない話である。一日10卻發い討盪綾銃任錬械娃悪劼箸覆襦0貽横悪卻發い燭藥綾銃任錬僑娃悪劼砲覆襦F椶任禄銃睚發韻弌大概、海に出る。それが倭国の常識である。
◎それでも不彌国から投馬国までが「千五百余里」と言うのは、かなり短い距離数である。実際は「三千余里」くらいはあるような感覚である。しかし、三世紀の、それも外国の話である。これくらいの不正確さが出ることは許されるのではないか。
◎投馬国は「可五萬餘戸」の大国である。それは邪馬台国の「可七萬餘戸」に次ぐ。それを案内しないで倭国は語れない。その表現法が「三国志」の記録だと考えたい。
◎投馬国の官に「彌彌」「彌彌那利」がある。耳成山に関連するような名で気になる。ただ、宮崎県に流れる川に耳川があり、その河口には美々津地名も存在する。後世、日向国の港となるところである。神武天皇のお船出の地とされるところでもある。
◎耳川は二級河川ではあるけれども、宮崎県の一級河川である五ヶ瀬川・小丸川・大淀川に遜色ない大河である。ただ、五ヶ瀬川・小丸川・大淀川とは異なり、河口に平野が形成されていない。