○内之浦の高屋神社は、肝付町北方1500番地に鎮座まします。その高屋神社について、白尾國柱の「麑藩名勝考」は次のように述べている。
正一位高屋大明神
在山陵之麓三里許、此地隷同郷南方村
奉祀即彦火々出見尊(神位坐像、高一尺三寸)
祔祀瓊々杵尊・葺不合尊。
此神廟は景行天皇の御艸建也。鳥居に正一位高屋大明神の扁額を掲ぐ(卜部兼敬書也)。例祭九月
九日、同月十日、此日流鏑馬あり。年中祭典凡そ二十七度、神社撰集曰、中御門天皇享保二年丁酉六
月二十六日、授高屋神正一位。又云宝暦十三年辛未十月二十八日夜亥刻、高屋神廟火たり。今宵戌下
刻、光明一道ありて、國見山陵に飛行。其光赫曜として山谷に射映る。又曰、高屋祠炎上、半時ばか
りの前に火気雲衢に衝入、すさまじく見へわたりけることあり。皆郷村男女親しく見る所、今に至り
て歎称をなして敬畏せり。
○『肝付町三岳まいり』が本来どういうものであるかを考える際、この内之浦の高屋神社を抜きに語ることは出来ない。実際、『肝付町三岳まいり』の三岳である、
・国見山
・黒尊岳
・甫与志岳
の国見山は、もともと内之浦では高屋山と称し、その山頂には高屋山上陵が存在する。その高屋山上陵が神代三山陵の一つであることは言うまでもない。
○念の為、「麑藩名勝考」の高屋山上陵の記録は、次のようになっている。
高屋山上陵(タカヤノヤマノウヘノミササギ)
書紀○和名鈔作鷹屋。今言國見陵。口訳曰、高屋前為竹屋。又廟陵記曰、薩摩國阿多郡
・大隅國肝属郡倶鷹屋郷、蓋二郷相接、恐此地山を云歟。今は非也。竹屋郷は今の加世田
にて殊に隔絶せり。
府東南二十里
書紀曰、彦火々出見尊崩、葬日向高屋山上陵、○古事記曰、日子穂々手見命は坐高千穂宮、伍佰捌
拾歳、御陵者即在其高千穂山之西也、即是也、○延喜諸陵式曰、高屋山上陵、彦火々出見尊也、在日
向國無陵戸、(今按、廟陵記曰、依陵有陵戸・守戸、有々陵戸而無守戸者、有有守戸無陵戸者、有無
陵戸・守戸者、陵戸其山陵百姓也、守戸は山陵の守也、有陵戸而無守戸者は、陵戸兼守戸也、有守戸
而無陵戸者、守戸兼陵戸也、○此地をも日向とあるは、上にいへるごとく、上代は大隅・薩摩之名な
く、皆日向國なれば也、)
高屋の山上陵は國見山の絶頂に在りて、俗に國見陵と称す。國見とはこの山上に登れば、日隅薩の
地を目下にみるといふに依れり。陵の上に自然石を安厝、圍八尺許、高出土一尺許、即尊を奉葬所に
して其上に叢祠を建り。高七尺余、方三尺八寸余。俗に國見権現と称し奉。さて此山上は麓より三里
許、其道盤行、嶢屼にて容易に登渉しがたし。一里許の山中鳥居あり。
○白尾國柱が「麑藩名勝考」を書いた目的は、神代三山陵の探求にあったのだから、高屋山上陵について、特に詳しいのは当たり前である。この後に絵図まで提示して、丁寧に記録している。
○白尾國柱が正一位高屋大明神の後に続けて記録しているのが『天子山』の記述である。その『天子山』は景行天皇の行在所故址だと言う。このことについても気になるところがあるので、ここに書き記しておきたい。
○天子山
景行天皇行闕の故址あり。高屋神社より辰巳方二十間許、田の中に在る叢林なり。其地廻り九十貳
間、行闕の棟示に大甕二を埋む。其一圍五尺八寸、一享保十四年己酉、倒木の為に壊しとて、寸尺審
ならず。又甕の戌亥方三間許に古松一株あり。圍一丈六尺、此叢林の中は邑人畏敬して漫に入ること
なし。書紀曰、景行天皇十二年秋七月、熊襲反面不朝貢。