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肝属郡・肝付氏・肝付町

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○前回、ブログ『かもつきのあひら』で案内したように、肝属地名は、まるで正体不明であるとされる。大隅国の建国は和銅6年(713年)のことで、その際、日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡を分けて建国されている。だから、肝属地名はそれより古いことが判る。

○ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典が案内する肝属郡は、次の通り。

      肝属郡
   肝属郡(きもつきぐん)は、鹿児島県(大隅国)の郡。
   人口37,203人、面積712.64km²、人口密度52.2人/km²。(2016年6月1日、推計人口)
   以下の4町を含む。
     東串良町(ひがしくしらちょう)
     錦江町(きんこうちょう)
     南大隅町(みなみおおすみちょう)
     肝付町(きもつきちょう)
  【歴史】
   713年の大隅国設置当初から存在した4郡のひとつである。当時の郡域は大隅半島最南部(現・南大
  隅町、肝付町)にあたり、肝属川流域の大部分(現・鹿屋市、東串良町など)は姶羅郡・大隅郡に属
  していた。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E5%B1%9E%E9%83%A1

○ただ、肝属郡は建国以来ずっと同じであったわけではない。時代とともに地域の変遷を繰り返している。中でも、肝付氏の影響は大きいとされる。

      肝付氏
   肝付氏(きもつきし)は、日本の氏族の一つであり、大隅の戦国大名でもあった。
  【経歴】
   本姓は伴氏である。平安時代に伴兼行(伴善男の玄孫、善男 → 中庸 → 仲兼 → 兼遠 → 兼行)
  が薩摩掾に任命されて下向した。兼行の子に行貞がおり、その子兼貞(妻は島津荘開墾者・大宰大監
  平季基の娘、又は季基の子・兼輔の娘)は大隅国肝属郡の弁済使となり、その子の兼俊の代に郡名を
  取って肝付を名乗った。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E6%B0%8F

○戦国大名としての肝付氏を代表するのが、第16代肝付兼続であることは間違いない。おおよそ大隅国一国を治め、日向国まで進出を図った。

      肝付兼続
   肝付 兼続(きもつき かねつぐ)は、大隅の戦国大名。肝付氏16代当主。
   永正8年(1511年)、15代当主・肝付兼興の長男として生まれる。
   天文2年(1533年)、父・兼興が死去すると、叔父の兼親(兼執)を滅ぼして家督を継いで16代当
  主となる。
   兼続は隣国の島津氏との関係を重視し、島津忠良の長女・御南を妻として迎える一方で、妹を忠良
  の子・島津貴久に嫁がせて良好な関係を保とうとした。一方で大隅の平定に着手し、天文7年(1538
  年)には高岳城を落としたのを契機に、大隅をほぼ平定した。天文11年(1542年)に百引城や平房
  城、天文13年(1544年)に安楽城、天文15年(1546年)に逢原城など諸城を落とし、大隅における肝
  付氏の勢力拡大に努めた。天文22年(1553年)、嫡男・良兼に家督を譲って隠居し出家したが、実権
  は握り続けた。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E5%85%BC%E7%B6%9A

○その肝属郡の中心である続けたのが現在の肝付町(きもつきちょう)と言うことになる。行政上では鹿児島県肝属郡肝付町となる。こうやって「肝属郡肝付町」と表記すると、違和感を覚えるのは私だけだろうか。『きもつき』の表記は、「肝杯・肝属・肝付」とさまざまだが、伝統的に「肝属」表記がもっとも流布している。

○それを平成の大合併で、わざわざ「肝付町」としている。私のような年寄りには、どうしても「肝属」に愛着がある。それに、鹿児島には肝属姓も多い。鹿児島県肝属郡肝付町と書くと、どうして肝属町にしてくれなかったのかと残念でならない。しかし、地名を決めることが出来るのはあくまで地元住民である。当然、それなりの理由があるのだろう。

●ただ、肝属地名が何であるかは、極めて大事な問題である。伴兼行の孫である兼貞がこの地を訪れる遙か昔から、この地は肝属郡であった。そのことを見逃してはなるまい。ある意味、「きもつき」地名に『肝杯』とか『肝属』の当て字を付した時に、「きもつき」地名はその由来を見失っていたと言うしかない。

●と言うことは、それは大隅国建国以前だと言うことになろう。そういうものを現代に復元する作業は極めて難しい。ただ、この地方最大の大名(おおな)が肝属であることは間違いない。だから、伴兼貞がこの地に居を構えた時、佳名として肝属の名を採用し、肝付氏を名乗ったのである。

●しかし、当時の肝属は郡名であって、それこそ大名(おおな)であって、伴兼貞の居住地そのものを指す地名では無かった。伴兼貞の居住地は肝属川の支流、高山川沿いだが、肝属地名の起源は、そのもう一つ上流の支流、姶良川の吾平山陵に基づくものであろう。

◎「かもつきのあひら」が意味するところは大きい。第一に、『あひら』地名が尋常では無いことを意味する。枕詞は何にでも付されるものではない。とりわけ、素晴らしく、特別で無いと、まず枕詞は付されない。肝属が大名(おおな)であることと、それは一致する。伴兼貞が肝付氏を名乗ったのも、そういう理由である。

◎付近の最大の大河に肝属の名が冠せられていることも見逃せない。

      肝属川
   肝属川(きもつきがわ・肝付川とも表記)は、鹿児島県南東部、大隅半島中部を流れ太平洋に注ぐ
  肝属川水系の本流で、一級河川である。上流部を鹿屋川と称する。
   大隅半島西部、高隈山地の御岳東麓に発し、笠野原西部を南流。旧吾平町北部で姶良川を併せると
  共に東流へ転じ、肝属平野南部をなぞりつつ志布志湾に注ぐ。 流域の広範囲にシラス台地が分布する。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E5%B1%9E%E5%B7%9D

◎肝属川は中流域で、串良川、高山川、姶良川、大姶良川などの多くの支流に分散する。その上流が鹿屋川で、高隈山の御岳に源流を発する。吾平山陵が存在するのは姶良川の上流になる。肝付氏の居城であった高山城は高山川の上流になる。

◎薩摩国には古墳がほとんど無い。それに対して、大隅国には古墳が結構存在する。その一大所在地が肝属川下流域であることも見逃せない。

      塚崎古墳群
   塚崎古墳群(つかざきこふんぐん)は鹿児島県肝属郡肝付町野崎塚崎にある古墳群。国の史跡。
   現在確認されている古墳は前方後円墳4基、円墳39基の43基で、他に地下式横穴墓十数基が確認さ
  れている。
   最大の古墳は前方後円墳の花牟礼古墳(40号墳)で、全長66.5メートル、後円部径33メートル、前
  方部幅26、前方部長32メートルである。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E5%B4%8E%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

◎塚崎古墳群が存在するのは肝属川右岸だが、左岸にも古墳群は存在し、唐仁古墳群と称す。

      唐仁古墳群
   唐仁古墳群(とうじんこふんぐん)は、鹿児島県肝属郡東串良町にある古墳群。国の史跡に指定さ
  れている。
   東串良町の大塚原、新川西、大塚、唐仁地区に140基以上の古墳が点在する鹿児島県最大の古墳群
  である。宮崎県の西都原古墳群、肝付町の塚崎古墳群、大崎町の横瀬古墳と関連のあるものと考えら
  れているが、被葬者などの詳細は不明である。
   最大の古墳は1号墳(唐仁大塚古墳)で、全長185メートル、高さ10.9メートル。墳丘部の土はめく
  れて竪穴式石室が露出しており、現在この古墳を神体とした大塚神社が鎮座している。
   1934年に国の史跡に指定された。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E4%BB%81%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

◎こういうものを一つ一つ丁寧に検証しながら論を進めて行く必要があることは言うまでも無い。そうすると、おぼろげながら、肝属地名がどういうものであったかが見えてくる。それが前回案内した『かもつきのあひら』なのである。

◎こういうことを誰もおっしゃるわけでは無い。しかし、肝属地名を追い掛けていくと、最後は吾平山陵に辿り着くしかない。そこが彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵であることに驚く。何故かと言うと、神武天皇の父君が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊だからである。

◎肝属地域で最大の大名(おおな)は、誰が考えても吾平山陵だろう。そう考えれば、自然と肝属地名の原初が見えてくる。それは『かもつきのあひら』でしかない。私はそう考える。

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