○前回、ブログ「肝属郡・肝付氏・肝付町」で案内したように、『かもつきのあひら』の中心をなすのが肝属川であることは間違いない。ただ、ここに存在するのが『かもつきのあひら』だけでは無いことに留意する必要がある。
○どういうことかと言うと、物事には流れがあって、それ一つが孤立して存在するわけでは無いと言うことである。具体的には、人は一人で存在するわけではない。親が居るし、兄弟もいるかも知れないし、妻や子供だって居る可能性が高い。そういう社会的構成員の中の一人として、誰でも存在している。
○そのことは、『かもつきのあひら』の主人公である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の場合も、全く同じである。父親は彦火火出見尊と申し上げ、祖父は彦火瓊々杵尊であることが判っている。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵が吾平山陵であれば、父親である彦火火出見尊や祖父である彦火瓊々杵尊の御陵も、吾平山陵の近辺に存在すると考える方が自然だろう。
○それを現在の神代三山陵比定地のように、バラバラだとすることは異常と言うしかない。常識的にそういうことは考えられないのである。ちなみに、現在の神代三山陵比定地は、次の通りとなっている。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○神代三山陵をもっともよく研究しているのは、江戸時代の国学者、白尾國柱だと思う。彼の研究を継承すれば、真実の神代三山陵が見えてくる。それは次のようになる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○つまり、神代三山陵を考える上では、最も所在地が相応しいと思われる吾平山陵から出発すべきであることが判る。そうすれば、神代三山陵は全て隣接して存在することが判る。このことについては、以下のブログで詳細に検証を加えているので、そちらを参照されたい。
・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1
●同じように、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊には息子がいる。御名を神倭伊波礼琵古命と申し上げる。神倭伊波礼琵古命は初代天皇として即位したことから、一般には神武天皇と申し上げる。その神武天皇が日向国から大和国へ移動して大和朝廷を開いた。それが日本の始まりとされる。
●神武天皇は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の息子だから、神武天皇の日向国での居住地は、当然、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と同じところだと推測される。それなら、肝属川近辺であることは間違いない。
●知る限り、日向国には神武天皇御発航伝説地が三カ所存在する。
・宮崎県日向市美々津:立磐神社
・鹿児島県霧島市福山町福山:宮浦神社
・鹿児島県肝属郡東串良町柏原:戸柱神社
●神武天皇が日向国を出立したところが居住地と関係していることは間違いあるまい。そこが神武天皇御発航の地であろう。父親である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵は鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵だと言うのだから、その吾平山陵の近辺に神武天皇御発航地は存在するはずである。
●そういう条件に当て嵌めると、神武天皇御発航地は、
・鹿児島県肝属郡東串良町柏原:戸柱神社
であるほかない。しかし、このことについては現地を訪れ、詳細に検証してから発言することが必要だろう。本ブログでは、すでにそのことを済ませている。詳しくは、以下を参照されたい。
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー序章』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8053931.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー美々津』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8120416.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー宮浦神社』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8165840.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー東串良町柏原』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8247070.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征お船出の地はどこか』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8259602.html
◎鹿児島県肝属郡東串良町柏原に戸柱神社が鎮座まします。御祭神は素戔嗚尊・八衢比古神・八衢比売神。その戸柱神社境内に「神武天皇御発航伝説地』の巨大石碑が建っている。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵が鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵である以上、ここが神武天皇御発航地だとするしかない。
◎つまり、肝属川最上流部に存在するのが彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の吾平山陵であり、その肝属川の河口に存在するのが神武天皇御発航地である。これなら、何の矛盾も無い。
◎もちろん、こういうものには、後世に造作されたものが幾らでも存在するし、あるいは勧請されて新しく存在するものも多い。だから、あくまで、丁寧な検証が要求あれる。だから、こうやって、何度も現地を訪れ、文献で確認するしか無いわけである。
◎ここには神代三山陵がそっくりそのまま存在する。神代三山陵など、神話の話であって、空想の産物だと否定することは簡単である。多くの神話学者先生は、何もご存じ無くて、日向神話そのものを空想の産物だと決めつけて止まない。
◎日向国をよく知ると、そういう学者先生の方が妄想だと言うことがよく判る。神話学者先生は何もご存じ無いに過ぎない。知らないで平気で論を展開なさる。だから、日本発祥の地とも言える天孫降臨の世界山さえ、規定出来ない。それが日本古代史の現状である。
◎「三国志(魏志倭人伝)」を中国で読むと、倭国三十国が鳥瞰される。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
◎そういう世界観をもって、陳寿は三世紀に、倭国三十国を「三国志」に描いてみせる。ところが二十一世紀にもなったと言うのに、未だに倭人はそれを読み解くことが出来ない。何とも貧しい民族だと呆れるしかない。実に寂しい話である。
◎「古事記」や「日本書紀」には、そういう日本人の叡智が込められていると私は判断する。日本人が何処から来て、何処へ行こうとするのか。そういう極めて大事な話である。美味しいものを食べたり、美しいものを見たりすることも時には必要かも知れないが、自分が何者で有るかを理解することはもっと大事なことではないかと陳寿は諭す。そういう陳寿を私は尊敬する。