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畝傍山東南橿原宮

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○奈良県橿原市のHPには、市の概要として、次のように載せる。

      橿原市の概要:市の位置
   橿原市は、奈良県のほぼ中央に位置し、東西7.5km、南北8.3kmの広がりを見せ、東は桜井市、西は
  大和高田市、南は高取町・明日香村、北は田原本町と接しています。面積は39.52k平方メートルで、
  全体的に起伏が少なく、市内の中央部には飛鳥川、西には曽我川が流れています。また、万葉の時代
  を偲ばせる大和三山(畝傍山:標高199m、耳成山:139m、香具山:152m)がそびえ、その中央には約
  1300年前にわが国初の首都であった藤原宮跡があります。その他、市内には歴史的文化遺産が点在し
  ています。鉄道網ではJRと近鉄が縦横に走り、あわせて13の駅があり、また国道24号・165号・169号
  と道路網も発達し、大阪からは30~40分、京都からは約1時間、関西国際空港からは約1時間、名古屋
  からは約2時間と交通の便も良く、古代から交通の要となっています。
  http://www.city.kashihara.nara.jp/kikaku/gaiyo/gaiyou.html

○ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典が案内する橿原市は、次の通り。

      橿原市
   橿原市(かしはらし)は、奈良県中部の市である。総人口約125,000人と奈良市に次ぐ県下第二の
  都市でもある。市名は神武天皇が磐余(いわれ)の地において磯城の首長の兄磯城(えしき)を破
  り、饒速日命も天津瑞を献じて仕えることとなり、神武天皇即位紀元辛酉の年の春正月の庚辰の朔日
  に畝傍山東南「橿原の宮」に即位し建国したことに由来する。市章(シンボルマーク)の金鵄は、神
  武天皇の弓の弭に止まって光り輝き、長髄彦の兵を追い払った鳶から意匠された。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E5%B8%82

●同じ橿原市についての記事なのだが、両者の内容は随分と異なるのに驚く。両者を読み比べていただければ、どちらがより正確にかつ丁寧に、そして親切に橿原市について載せているかが判る。私なら正直、断然、ウィキペディアフリー百科事典の方を採用する。

●橿原市がどうして橿原市であるのか。それを案内するのに、神武天皇が必要不可欠の存在であることは間違いない。現在でも、橿原市には畝傍山が屹立し、橿原神宮が鎮座ましまし、畝傍御陵が祀られている。何故か、そういうものを一切排除しようとする意思が橿原市HPには感じられてならない。それでは橿原市案内にはならない。それは現実や事実を故意に思想で歪曲しようとするものであって、極めて残念な話である。

●橿原市HPのように了見の狭い考えでは、見えるものも見えなくなってしまう。橿原市で神武天皇の話をしないで何の話が出来るとおっしゃるのだろうか。それに、大和三山が決して「万葉集」だけのものではないこともまるで理解されていない。

●第一、大和三山はレプリカに過ぎない。本物は別に存在する。それに、橿原市で大和三山である『うねびやま』『かぐやま』『みみなしやま』の名義を説明することは誰にも出来ない。大和三山が他所から勧請されたものであることは、そういうことからも、明らかである。詳しくは以下を参照されたい。
  ・書庫「大和三山」:23個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201946.html?m=l&p=1

●加えて、橿原市で藤原京の話をするくらいなら、その前にまず、神武天皇の話をする方が先だろう。ある意味、橿原市は神武天皇とともにあると言って過言ではあるまい。そういう肝心の話を放棄して橿原市の概要や歴史は誰にも語れない。

◎橿原市HPには、何とも貧しい唯物史観が露呈されているようで、何ともやるせない気分にさせられる。貧弱な現物だけで歴史や文化を語ろうとするほど見苦しいものは無い。そうした結果が橿原市のHPである。橿原市がどうして橿原市であるのか。それは「日本書紀」の『畝傍山東南橿原宮』記事以外にあり得ないことである。それを無視して橿原市の概要や歴史を語ろうとすることがどんなに空しいものであるか。そういうことを橿原市のHPが教えてくれる。

◎以前、橿原市で太古の樫の木の巨木が出土して大騒ぎになったと言う話を橿原市関係の書物で知って、驚いた。それがさも橿原市の地名由来であるかのように喧伝されていたからである。誰がこういう短絡的な話を始めたのだろうか。驚き呆れるしかない。

◎橿原市に存在する大和三山へは、これまで6回登っている。
  第一回  平成4年3月28日
  第二回  平成15年8月11日
  第三回  平成17年5月10日
  第四回  平成21年3月29日
  第五回  平成22年4月3日
  第六回  平成23年5月3日

◎登ってみると判るのだが、畝傍山はまるで『うねって』いないのである。うねっているから畝傍山ではないか。香具山は『火の山』の意なのだが、香具山の何処にも火の気配は無い。まして『天の』の形容を香具山で説明することは誰も出来ない。耳成山に至っては、それが意味するのがどういうことかすら、説明出来ない。

◎橿原市であれほど喧伝されている大和三山がどういう山であるか。それすら、橿原市は解明出来ていないのである。第一、大和三山と大和国名を冠された山が標高200辰砲睨燭覆ぞ山であると言う方がどうかしている。あれはレプリカであって、本物は別に存在すると考える方が自然だろう。

◎本物の大和三山は邪馬台国三山と言う。話は長くなるので、以下を参照していただくしかない。
  ・書庫「邪馬台国三山」:54個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1264643.html?m=l&p=1

◎「古事記」「日本書紀」に拠れば、初代天皇である神武天皇が大和国で即位なさったのが『畝傍山東南橿原宮』だと言う。だから、ここが日本の始まりとされている。つまり、橿原市は日本の始まりだと言うわけである。

◎橿原市が神武天皇と切っても切れない関係にあるように、神武天皇と畝傍山も密接な関係にある。話が長くなるので、以下を参照されたい。
  ・書庫「邪馬台国三山」:ブログ『畝傍山と神武天皇』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39400307.html

◎だから橿原市の案内をするのであれば、神武天皇と畝傍山は欠かせない。そういうふうに橿原市は古代より現代まで存在し続けている。そういう歴史を語らないで橿原市を案内することは不可能だろう。

◎橿原市のHPを見て、驚き呆れ、話がとんでもない方向へ行ってしまった。本来、ここでは橿原地名由来を語るはずであった。大和国で大和地名を説明出来ないように、畝傍山・香具山・耳成山の大和三山も説明不可能である。これらの地名は全て他所から勧請されて大和国へやって来たものである。だから、もともとの地名は日向国に存在する。

◎同じように、橿原地名も何処か他所から勧請された地名だと言うしかない。もちろん、持ち込んだのは神武天皇とするしかない。何故なら、神武天皇御発航伝説の地の名が『鹿児島県肝属郡東串良町柏原』と言うのだから。

◎『鹿児島県肝属郡東串良町柏原』は、肝属川河口になる。その肝属川を20劼曚描未辰燭箸海蹐妨稱浸確佑存在する。この辺りが。神武天皇の父親である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の支配した地域であることは間違いない。つまり、天皇家の故郷が此処だと言うことである。

◎肝属川は、そういう川である。せっかく、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵である吾平山陵がここに存在するのに、そういうふうに誰も考えない。不思議な話である。

◎もちろん、そういうことを教えてくれたのが白尾國柱の「麑藩名勝考」であることは言うまでもない。「麑藩名勝考」は希有の名文だし、至高の名作である。なかなか誰も読んでくれないけれども。

◎現在の神代三山陵否比定地には、相当問題がある。これも白尾國柱の神代三山陵を引き継ぐことに拠って解明される。詳しくは以下を参照されたい。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1

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