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天皇家の故郷:神代三山陵

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○「かもつきのあひら」から「 神武天皇御発航伝説地」、「畝傍山東南橿原宮」、「救仁湊」と来たら、次は「天皇家の故郷:神代三山陵」しかない。つまり、天皇家の故郷が神代三山陵であることを意味する。

○今年2016年5月22日(日)に、肝属町の三岳参りに参加した。肝属町の三岳とは、
  ・甫与志岳(966叩
  ・黒尊岳(908叩
  ・国見山(886叩
を意味する。肝属町の三岳参りの歴史は古い。少なくとも江戸時代に盛んに行われていたことを、寛政7年(1795年)刊行の白尾國柱著「麑藩名勝考」が記録している。

○もともと白尾國柱の「麑藩名勝考」は神代三山陵探求のために書かれた書物である。そのことは著者自身が巻頭言で明らかにしている。その白尾國柱の神代三山陵研究を継承すると、真実の神代三山陵が見えてくる。それは次のように案内される。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

●現在は肝属町の三岳参りとされているけれども、本来は肝属町の三岳参りは神事であったことは間違いない。残念ながら、白尾國柱の「麑藩名勝考」もそれが何処の神社の神事であったかを明らかにしていない。だから、私たちはそれがどういう神事であったかを復元する必要性がある。

●その契機となるのは、やはり、三岳参りが祖霊信仰に基づくものだと言うことであろう。それなら、三岳参りは新しい時代から古い時代へと遡るものであるはずだろう。そう考えると、自ずから、そのルートが見えてくる。
  ・吾平山陵→高屋山陵→可愛山陵

●そういう意味では、吾平山陵を齋き祀る社である鵜戸神社の神事が肝属町の三岳参りの起源であるとするしかない。つまり、吾平山陵の鵜戸神社を出発し、国見山(886叩砲愿个蝓黒尊岳(908叩砲魴个董∧稷浸岾戞複坑僑境叩砲泙嚢圓、そして吾平山陵の鵜戸神社まで帰って来るルートだと言うことになる。

◎白尾國柱の「麑藩名勝考」に拠れば、江戸時代の三岳参りは、すでに一日掛かりのものに短縮されてしまっているが、本来は、おそらく三日掛かりくらいの壮大な宗教行事であったことが想像される。

◎どういうことかと言うと、吾平山陵を齋き祀る社である鵜戸神社は、平地に存在する社であるから、奥宮と里宮に分離していない。それに対して、甫与志岳(966叩砲箙餮山(886叩忙劃困紡減澆垢觴劼榔椶販さ椶箸吠離している。奥宮に参拝して里宮へ参詣しないと言うことは、まず考えられない。

◎そう考えると、本来の三岳参りは、次のようになるのではないか。

○起点は、やはり吾平山陵を齋き祀る社である鵜戸神社であろう。祭りであるから当然、行列は相当大がかりなものであって、町へと繰り出す。したがって姶良川を下り、吾平の町中を練り歩いたに違いない。おそらく、ここまでで一日の道中ではなかったか。

○明くる日は、東へ移動し、高山の町中を練り歩き、高山川から本城川へと進み、国見山(886叩謀仍海悗噺う。ただ、それほど先を急ぐ道中でもない。おそらく、高山の町でも一泊したのではないか。

○三日目がいよいよ国見山登山である。ただ、正確には国見山登山では無くて、高屋山上の奥宮参詣となる。本来、国見山(886叩砲蝋睫郢海正式名称なのである。神社名も高野神社と申し上げる。その里宮は肝付町北方1500番地に鎮座まします高屋神社となる。

○現在のルートで説明するなら、高山の町から本城川へ沿って遡り、国見峠(750叩砲泙巴する。現在、ここには国見トンネルが存在し、国見峠(750叩砲泙播个詆要は無い。

○国見峠から高屋山上の奥宮までは、意外に近く、1、5劼らいだろうか。歩いても30分程度である。標高差も130辰らいである。

○本来は、高屋山上の奥宮から里宮である肝付町北方1500番地の高屋神社へと下って行ったのではないか。ここで三日目も終わりだろう。

○内之浦は北方と南方に分かれる。それを分けているのが叶嶽(187叩砲噺世小山である。内之浦の平地の真ん中に突き出ている山脈の端である。この叶嶽をずっと進むと甫与志岳(966叩忙劃困愧する。

○叶嶽には叶嶽神社と言う小祠が存在している。おそらく、ここが里宮で、奥宮が甫与志岳(966叩忙劃困任△蹐Αそういう意味で「叶嶽(かのうだけ)」の名は興味深い。もともと「叶嶽(かのうだけ)」が可愛岳であった可能性は高い。

○内之浦では高屋神社から叶嶽神社へと移動し、神事も行われただろうから、四日目五日目と過ごしたのではないか。そして、六日目にいよいよ最後の甫与志岳(966叩砲悗噺ったものと想像される。

○甫与志岳(966叩砲愿个蝓下っただけで六日目はお仕舞いだろう。高山川最上流の二股川付近で野営するしかない。そこで、最後の夜を迎えた。

○二股川から神野を経由して吾平山陵を齋き祀る社である鵜戸神社へ帰り着くのは、およそ一週間掛かりの大行事であり、大神事たったに違いない。もちろん、誰でもが容易に参加出来る神事でも無い。人々が参加出来たのは、居住地を祭りの行列が通る時だけだったに違いない。

◎想像するに、肝属町の三岳参りの原型はそういうものではなかったか。それが簡素化され、国見山(886叩砲ら甫与志岳(966叩砲慊捷圓垢襪茲Δ砲覆辰拭7覯漫黒尊岳(908叩砲魴侏海垢襪茲Δ砲覆辰燭海箸ら『三岳参り』の名が付いた。

◎肝属町の三岳参りの原型は祖霊信仰であり、神代三山陵巡りであったと考えるしかない。だから、これだけ時代を経ても継承され続けるのである。そのことは、真実の神代三山陵を考えれば、判ることである。

◎古代人の信仰心は凄い。その神代三山陵を移動先の畿内にまで持ち込んでいる。それが神代三山陵の先坣僑位である。話が長くなるので、以下を参照されたい。
  ・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『神代三山陵の先坣僑位』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40406401.html

◎その『神代三山陵の先坣僑位』である、
  ・可愛山陵=吉野山:奈良県吉野郡吉野町及び天川村
  ・高屋山陵=高野山:和歌山県伊都郡高野町高野山
  ・吾平山陵=熊野本宮:和歌山県田辺市本宮町本宮
は、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産に登録されている。たかだか『神代三山陵の先坣僑位』であってさえ、世界文化遺産なのである。それなら、真実の神代三山陵が世界文化遺産を超える存在であることは間違いない。

◎神代三山陵とは、そういうものなのである。当然、そこが天皇家の故郷であることは間違いない。肝属町の三岳参りを掘り下げると、そういうものが出現する。文化とは、そういうものなのである。

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